Thursday, December 2, 2021

11曲目:深い森(『19曲のラブソング』所収)

深い森 by デイヴィッド・レヴィサン 訳 藍(2020年8月29日2020年11月3日



トラック 11の『深い森』は、本文中に登場するテイラー・スウィフトの『Out of the Woods(深い森を抜け出して)』をモチーフにしているっぽいので、一度ミュージックビデオを見てから、読んだ方がいいかもしれません👇



トラック 11

深い森


彼を驚かせるつもりはなかった。彼の住む共同住宅の入口で、たまたま彼の同居人の女性と鉢合わせして、彼女に挨拶していたら、彼に「着いたよ」と一言メールするのを忘れてしまったのだ。彼の部屋のドアは完全には閉まっておらず、少し隙間が空いていたため、ノックする必要性を感じないまま、俺はドアをすっと押し開けた。中に入るとすぐに、俺は「ハロー」と言った。―こっそり忍び込んだとか、そういう感じではない。机に向かっている彼の背中が見えた。そして、俺の声を感知した瞬間、彼が目の前のノートパソコンをピシャリと閉じたのだ。それから、彼はこちらを振り返る。罪悪感の痕跡を顔からすっかり拭い去ったつもりなのかもしれないが、俺にはその跡が見て取れた。

彼と付き合い始めて1年以上になるが、そんな風に彼がピシャリとノートパソコンを閉じる場面に出くわしたのは初めてだった。それで俺は、これはかなり深刻な事態だと思った。

「何してるの?」と俺は聞いた。聞きながら、あれこれ答えを予想していた。俺自身が過去にノートパソコンをあんな風に閉めた時のことを思い出し、ポルノだな、と思った。ただ、俺たちの性生活はかなり充実していたので、今さら、彼がもの欲しげにポルノ動画を見ていたところで、あるいはズボンを下ろして見ていたとしても、それが何?って感じだし、自慰行為がばれるのを彼が恐れるなんて、ちょっと首を傾げてしまう。同意があれば、どんな種類の性行為もしたっていいんじゃない、という俺のスタンスは彼にはっきりと伝えてあったし、それ以前に、決して同意できない種類の行為も僕にはある、ということも伝えてあった。ということは、―頭の中でいくつかの道筋を辿った結果、一つの結論が導き出される。彼が画面上で見ていたものがなんであれ、それは、俺に見られたら、俺が彼を軽蔑するような何かであり、取り返しのつかないほどに俺たちの関係性をおとしめる、そう彼が危惧するほどの何かなのだ。

あるいは、―他の可能性としては、―彼が浮気をしていて、俺はその犯行現場を目撃してしまったのかもしれない。

「真面目な話」と俺は言った。「なんでそんな隠すような真似をするんだ? 理由を話してもらわなくちゃ困るな」

彼はジレンマの角に洋服を引っ掛けて身動きが取れなくなったように、苦渋の表情を浮かべた。なんとか抜け出そうともがくが、引っ掛かりはなかなか取れず、傷はますます広がるばかり、といった様子だ。

「言ってもいいけど」と彼が口を開いた。「審査員みたいにジャッジしないって約束してくれる?」

「それは約束できないな」と俺は答えた。「もうジャッジしちゃってるし」この状況では、どちらか一方が本音を話す必要があると思った。ジャッジしないって約束してくれる? みたいな質問に、もしイエスと答える人がいれば、間違いなく、うそつきだ。ジャッジなんて、制御できるようなものではない。―もしできるとすれば、内心ではジャッジしているんだけど、それを表情に出さないように、自分の感情をなだめすかすことくらいだ。

そして今は、自分の感情をなだめたり、手懐けたり、そんなことできる気分じゃない。

「とにかく教えてくれ」と俺は言う。

彼がため息をついた。「実は、君にずっと隠してたことがあるんだ。どう言えばいいかわからなくて、言い出せなかった」

今度は俺が角に引っ掛かり、進退窮まってしまう。彼が何をしていたとしても、彼が何と言おうと、俺の怒りは、―俺の激怒は、―さらにその炎を強めるだろう! そして、計り知れないほど俺は傷付き、深い悲しみに打ちひしがれることになるんだ。―秘密にもいろんな種類がある。本人も忘れてしまうような些細な秘密もあるし、一旦は隠そうと土の中に埋めたけれど、それから長い月日が経ちすぎて、どこに埋めたのか、墓の場所すら覚えていないような秘密だってある。だけど、今回は、―彼の口から放たれるだろう秘密は、今日まで続いている大きな隠し事だ。結果として、今日まで土の中に埋められていたのは俺の方だった、という事実を突き付けられるのだ。

相手は誰? そう聞いてしまいたい気持ちとは裏腹に、そう声に出した瞬間に、頭の中の場面が現実になってしまう予感がして、声が出ない。せっかく二人で楽しくやってきたっていうのに、二人仲良く過ごしてきた日々が壊れてしまうのが怖い。つい数分前まで、俺たちの関係は順調だったじゃないか。

「わかったよ」と彼は言って、ノートパソコンを見下ろした。殺人犯が机の上に置かれた銃を見つめ、犯行当時のシーンを回想しているようにも見える。それから彼は俺の方を振り返ると、言った。「始まったのは3年前だから、君と出会う前だよ」

つまり、元カレと続いていたということか...何人前の元カレか知らないけど。

「それで...言いそびれていたというか、何て言い出せばいいのかわからなかったから、言わずに今まで来ちゃったんだ。君が知らなくても何も問題ないって思ってたし、少なくとも、君の好みじゃないよ」

ということは、みんな知ってたってことか。俺以外の誰もが。

「君が受け入れるとは思えないよ。君の好みじゃないってわかってるから」

浮気相手が? ちくしょう、そりゃ僕の好みじゃないだろうな。

「でも話すよ。ただ伝えておくだけだけど、それでもいい?」

俺はうなずく。

「この何年か、ずっとテイラー・スウィフトを主人公にした小説を書いていたんだ。いわゆるファン・フィクションってやつ。もうかなりの量を書いたからね...それなりに有名にもなったよ」

俺は彼を見つめる。彼は冗談を言っている感じではない。もし元カレだか、元々カレだか知らないけど...浮気を隠すために適当にでっち上げた話なら、史上最悪のカバーストーリーだ。でも、彼は真剣だった。

彼がノートパソコンを開いて、俺に向かって手招きする。俺は近寄って、画面を覗き込んだ。

それはブログだった。彼がログインしようとしている最中に、俺が部屋に入ってきたようで、もう一度彼はパスワードを入れ直す。ブログのトップページが立ち現れ、上部のバナーにこう書かれていた。


大胆不敵なミス・Sの苦悩と偉業


そのタイトルの下には、テイラー・スウィフトの絵が描かれていた。彼女はスタイリッシュな荒くれ者の剣士みたいに見える。あるいは、ファッショナブルな忍者と言った方が近いかもしれない。

その絵の下に、フォロワー数が表示されている。

なんと、俺のボーイフレンドには、394,039人ものフォロワーがいた。


それから3時間かけて、俺はそのストーリーを最初から読んでいった。彼の部屋で、彼のパソコンの前に座りながら、これまで俺が近くにいない時に彼が書いていた文章を読んだ。そういえば、俺が同じ部屋にいる時でも、何かを書いていた節があったな、と思い出した。その時は、誰かにメールでも書いているか、動画でも見ているんだろう、くらいしか思わなかったけど。

俺が食い入るように読んでいる間、オーウェンは近くにいるのがいたたまれなくなったようで、ちょっと用事を済ませてくる、と言って出ていった。俺は彼のブログに没頭していて、いつ彼が出ていったのか、ほとんど気づかないくらいだった。

それは俺が思っていたものではなかった。俺は、何て言うか、もっとイチャイチャした、お熱いキスばかりしているラブロマンスを期待していたんだけど、全然違った。西暦2015年、我らが(ゲイの)主であるイエス・キリストが生まれて2015年目の頃、テイラー・スウィフトは恋に落ちた。彼女について詳しくない俺でも、テイラー・スウィフトの恋の相手は何人か知っている。ワン・ダイレクションのハリー、ジョナス・ブラザーズのジョー、他にもいたかもしれないが、とにかく彼女の恋愛はなかなか望み通りにならず、別れを繰り返すことになる。そして彼女はそのことについて、失恋ソングを書くのだ。だから俺は、テイラー・スウィフトが主人公だと聞いて、そういうロマンスを繰り返す話かと思った。あるいは、買い物好きの女子の話かと。というのも、俺はテイラー・スウィフトを見るといつも、ショッピングモールで本当に楽しそうに買い物している、キャピキャピした女の子を連想してしまうから。

しかし、オーウェンが書いたものはそうではなかった。大胆不敵なミス・Sはさっそうとした、勇敢なスーパーヒーローだったのだ。彼女の最大の武器は、共感だった。相手の気持ちを思いやることこそが、超能力に匹敵するパワーを生み出す。彼女はそれを体現しているようだった。舞台は地球全土に渡り、彼女はそれぞれのエピソードで世界のいたるところに現れ、卑劣なやからと戦い、仲間だと思っていた裏切り者と戦っていた。そして世間知らずの女の子や、ゲイの少年を救うのだった。彼女の宿敵は、ジャスティン・ビーバーだった。彼は二枚舌で上手く世間を渡っているが、実は、不誠実なカナダ人で組織された秘密結社に属する悪党で、悪の取り巻きとともに世界征服を目論んでいた。彼が狙っているのは、売り上げチャートの最上位に君臨するセリーヌ・ディオンの『My Heart Will Go On』だった。ビーバーとミス・Sの戦いは往々にして、セレーナという名の少女の心をめぐって、繰り広げられた。ただ、どちらが手にしたところで、心なんて、あってないようなものかもしれないのに。(セレーナが誰を表すのかと思い、Googleで検索してみると、セレーナ・ゴメスという歌手が実在した。―少なくとも、検索に引っ掛かるくらいには有名人のようだ。)ミス・Sの冒険活劇は過去から現在まで時空を飛び越え、随所で読者の不意を突くように、彼女の歌の歌詞が挿入された。読者がそれぞれの時代、それぞれの場所で集めた欠片をつなぎ合わせると、一つの神話が浮かび上がる、という構成になっていた。たとえば、3つの地で、放射線を放つ涙が彼女のアコースティックギターに落ちた時、音階に狂いが生じ、逆にミステリアスな現象が起きる、といった仕掛けも含まれていた。おそらく、3つの涙は、彼女の3回の失恋を象徴しているのだろう。ミス・Sは、セレーナとともにジョナス・ブラザーズのロマンスの渦巻きに飲み込まれていった。しかし、大胆不敵なミス・Sだけは自力で這い上がり、強さと歌を武器に渦巻きから抜け出したのだ。

俺はそのストーリーに惹きつけられたかというと、そうでもない。たしかに楽しい読み物ではあると思ったが、自分のボーイフレンドが書いたものだと知らなければ、一つの記事だけ読んで、今後二度と訪れることはないブログだった。

しかし、他の人たちは明らかに虜になっていた。各エントリーには数百(時には数千)のコメントが付いていて、これはオーウェンによるテイラー・スウィフトへの応援ブログなのだが、オーウェンへの応援ブログを書いている人もいた。「大胆不敵なミス・S」のFacebookページに飛んでみると、テイラー・スウィフト風に着飾った世界中の人々とつながっていた。(特にオランダ人が多く見受けられた。)彼女の曲名をもじったキャッチフレーズ入りのTシャツを着ている人も結構いる。たとえば、『You Belong With Me』をもじって、Banality Belongs With Bieber, But You Belong With Me.(陳腐な歌詞はビーバーのもの。でもあなたは私のもの)とか、『I Knew You Were Trouble』に補足説明を付け足して、I Knew You Were Trouble, Which Is Why I Kicked Your Ass.(あなたが厄介者だって最初からわかってたのよ。だから叩きのめしてやったの)とか。『22』をいじって、You Don’t Have 2 B 22 2 B 22.とか。(これは最初何のことかわからなかったのは認めるけど、)この「2 B」は「to be」って意味だろうから、You Don’t Have to be 22 to be 22.(22歳らしい22歳になんてならなくていいんだよ)と俺は解釈した。





オーウェンが重い足取りで戻ってきたので、俺は読むのをやめた。手にはドーナツの袋を提げている。―明け透けな賄賂だとわかったが、俺は諸手を挙げて受け取ってしまう。

「それで、どう?」彼がドーナツの袋を差し出しながら言う。「そういうこと。読んだ通りだよ」

「気に入ったよ」と俺は答えた。「楽しいね」

彼が立ったまま険しい表情をした。「楽しい」

「本当に楽しかったよ」

楽しかった

「そう、楽しかった」俺には彼がなぜそんな不穏な反応をするのか理解できない。

やはりオーウェンは俺の発言を褒め言葉として受け取らなかったようだ。「良くなかったってことか。君はそうやってお茶を濁すみたいに、話をうやむやにして、見なかったことにするつもりなんだね。やっぱり君には見せるべきじゃなかった」

「そうじゃない! 良かったよ! それなりに」

それなりにってどういう意味?」

「つまり、ノーベル賞作家のアリス・マンローと比べてるわけじゃないってこと。そうだろ? もし比べてもいいなら、アリス・マンローは文章の美しさという点で、君の上を行っているかもしれない。だけど、それぞれにはそれぞれの良さがあるじゃないか。君がアリス・マンローに勝ってる部分も、ちゃんとあったよ。アクションシーンは確実に君の勝ちだし、それから冒険。ポップカルチャーを前面に押し出してるところなんか、君にあって、アリス・マンローにはない利点だ。とにかく、―君のターゲットオーディエンスは、カナダ人作家のマンローを好んで読むような人たちじゃないだろ? もしマンローファンも取り込もうとしてるのなら、もっと君はカナダ人に受けがいいはずだ」

「じゃあ、僕が狙ってるオーディエンスはどんな層だと思う?」

これは試されてるな、と感じた。不用意に答えない方がいいだろう。

「さあ」と俺は言った。「君が狙ってるのはどういう人たちなんだい?」

質問に質問で返した俺に、彼ががっかりしたのが彼の表情から読み取れた。俺はまだドーナツに手をつけていない。

「僕だよ」と彼は言った。「僕のターゲットオーディエンスは僕自身だよ。僕は僕のために書き始めたんだ。そしたらそれが...広まっちゃって」

「ほぼ40万人だよ」

「そうみたいだね」

「凄すぎる」と俺は言って、立ち上がると、ドーナツの袋を彼に差し戻した。最初のドーナツを選ぶのは彼であるべきだと思った。「本当に、びっくりだよ」

「オッケー」と彼は言って、袋を覗き込むと、チョコレートがたっぷりかかったドーナツを選んで取り出した。

なぜ彼はブログのことを俺に言わなかったんだろう。ドーナツを食べながら、そんなことを考えていた。でも聞かなかった。彼も何も言わなかったから、最終的に僕が読んだことを喜んでいるのかどうか、わからない。俺たちの横でノートパソコンは、そのまま開かれていた。いつしかスクリーンセーバーが起動し、画面上で球体の図形が行き来し始めた頃、俺たちは唇を合わせた。甘い味がした。


次の日、職場で、俺は彼のブログを開くことになった。

それはガブリエラのせいだった。俺たちは朝、顔を合わせると、ふざけ半分で「昨夜はどうだった?」と、お互いのベッド事情を聞き合うのが常だったのだが、俺はつい、彼がテイラー・スウィフトの話を書いていて、たくさんの人がそれを読んでいることが判明した、と言ってしまった。

「何ていうブログ?」と彼女が聞いた。

大胆不敵なミス・Sの偉業と何とか

ガブリエラが笑い声を上げた。「嘘でしょ。そんなことってある?」

「知ってるんですか?」

「逆に知らないの? 私はかなり読み込んでるわ。テレビをつけるたびにキム・カーダシアンが、彼女の胎盤は出産に適してるだとか適してないだとか、ぐちぐち言ってるけど、彼女の胎盤話以上の時間をかけて、私はあのブログを読んでるわ」

ガブリエラは〈パーク・スロープ〉に住んでいる56歳のレズビアンで、彼女が音楽好きなのは知っていた。トシ・レーガンが野外音楽堂で弾き語りライブをする時には、いつも俺を引っ張るように連れていってくれるんだけど、トシ・レーガンとテイラー・スウィフトでは、どちらも女性シンガーではあるけれど、音楽的に違いすぎるから、彼女がテイラー・スウィフトのファンだったとは、さすがに見抜けなかった。


~~~


藍は地名が出てくるたびに場所を確認しているんだけど、これからはち、ち、地図を載せます!笑



~~~


「そうだったんですか」と俺は言った。「かなりびっくりしました」

「心しておきなさい。作家と付き合うのは大変よ。そのうち、このストーリーの中のジャスティン・ビーバーって、もしかして僕のことじゃないか、みたいに疑心暗鬼に囚われる瞬間が来るわ」

「まあ、これは自伝じゃないですからね」と俺は指摘する。「僕はデイビッド・セダリスやシェリル・ストレイドみたいな、実人生を書く作家と結婚してるわけじゃない。というか、彼はテイラー・スウィフトについて書いてるだけです」

「あなたが何と言ってもね、クラーク。私はあれを読むと、大胆不敵なミス・Sって、なんだか私によく似てるわって思えるの。ということは、きっとオーウェンも、ミス・Sに彼自身を投影してるってことよ」

「ああ、そうですね、確かに」と俺は言う。しかし、俺が実際に考えていたのは、次のようなことだった。なぜ彼女は、あのストーリーの中のジャスティン・ビーバーが僕だと、ぴんと来たのだろう?

そうして、俺はガブリエラが去った後も、彼のブログを覗き見ることになった。ストーリーの中にその手がかりを、俺に関する何かを見つけるために。


問題は、俺がジャスティン・ビーバーと同じカナダ人だということだ。

俺はポップシンガーではないし、過去に歌手だったこともないが、カナダの首都、オタワ出身だった。俺はカナダのポップスをあまり聴かない。―アラニス・モリセットだけは、彼女の全盛期に、一時期はまって聴いていたけれど、それ以来聴いていない。というか、彼女の音楽性はポップスという感じでもないが。―俺のプレイリストには、アーケイド・ファイアも、ファイストも、オーウェン・パレットも入っていない。つまり、〈不誠実なカナダ人たちの秘密結社〉なる組織に俺が含まれる要素は、どこにもないはずだ。

もちろん、俺の知らないところで勝手に会員登録されていた、ということもなきにしもあらずだが。

疑心暗鬼になりかけてるのは、自分でもわかってる。ちょっと勘ぐりすぎだな。オーウェンはここニューヨークに、カナダ人の知人がたくさんいるじゃないか。待てよ。そこで俺は気づいた。オーウェンが知ってるカナダ人は、全員俺の友達じゃないか。

ポイントは、俺がジャスティン・ビーバーとは全然違うということだ。

まず第一に、俺は丸刈りに近い短髪だ。ビーバーのあのふさふさした髪には、いろんな逸話がまとわりついている。偽りの髪じゃないかって話もある。俺のさっぱりしたバズカットの方がいいに決まってる。それから、彼は体にタトゥーを入れ、秘密のメッセージを組み込んでいるらしいが、俺の腕に唯一ある斑点は生まれ持ったものだし、彼はよく人々を「ベイビー」と呼んでいるけれど、俺は誰かを「ベイビー」なんて呼んだことは一度だってない。赤ん坊に対してさえ、そうは呼ばない。

それでも、この街の底流にひそむアンチ・カナダ人の風当たりは無視できないものがある。俺は彼の書いたストーリーをもう一度読み返している。フラッシュバックされ、2013年の夏に舞い戻る。そう、ここで急激な展開を迎えたのだ。〈不誠実なカナダ人結社〉の親玉が、期待に反して、セリーヌ・ディオンではないことが判明した場面だ。はっきりと名前は出ていなかったが、そのギターをかき鳴らすカナダ人女性は、どう考えても、ジョニ・ミッチェルだった。それが分かった時、俺は(自分でも信じられないことに)めまいを覚えた。その後、ジョニ・ミッチェルの自伝的映画が公開されることになり、ジョニの役を演じるのがミス・Sではないかという噂が巷に流れ出すと、ジョニはそれをなんとか阻止しようと、若い頃のケネディ大統領を金で雇って、彼女の元に送り込んだ。ミス・Sを誘惑し、愛に溺れさせ、表舞台から消し去ろう、とたくらんだのだ。その計画はもう少しで完遂するところだった。―ハイアニス・ポートの門の外に侍女のアビゲイルを待たせておいて、ミス・Sはもう少しで貞操を失うところだった。若きケネディが彼女の処女を奪い、戦いのない平穏な地、キャメロットに彼女を追いやろうとした時、ミス・Sはすべてを悟った。ジョニ・ミッチェルの策略に気づき、活力を取り戻したミス・Sが、覆い被さってくる彼の体をはねのけ、一気に形勢を逆転させたのだ。怖気づいたケネディは、最後に捨て台詞を残して逃げ去っていったのだが、その捨て台詞が、ジョニ・ミッチェルの代表曲だったから、俺は思わず吹き出すように笑ってしまった。「あなたを1ケース分、飲み干したって、ほら、私はまだ正気よ、ちゃんと自分の足で立っていられるんだから」笑いが収まってきた頃、俺は思い出した。そういえば、この曲は、助手席に乗っていたオーウェンに向かって、俺が優しい歌声で歌って聞かせた曲じゃないか。あれは二人で夕食を食べた後、高速道路を走っていた時だ。

俺は頭を振って、自分に言い聞かせる。「こんなの馬鹿げてる。完全にパラノイアにかかってるぞ!」そう大声で叫ばずにはいられない心境だったが、ここは職場だと思い出し、なんとか声を抑えた。再び冷静になって考え...オーウェンがブログを秘密にしておいた理由は他にもたくさんあるじゃないか、と結論付けた。べつに、これが自伝的性質を帯びているゆえに隠していたとは限らない。もっと言えば、このストーリーは、俺が彼の人生に登場する前から始まっていたものだ。ビーバーを悪玉の宿敵に選んだ時、オーウェンはカナダ人と付き合ってはいなかった。待てよ、彼の過去に俺が知らない別のカナダ人がいないとも限らないな...

待て待て。これはテイラー・スウィフトの話なんだ。俺は息を吸い込んで、吐き出すように、自分に言い聞かせる。テイラー。スウィフト。

俺は邪念を振り払いたかったのだが、できなかった。居ても立っても居られなくなり、その日の終わり、ガブリエラのオフィスに、たぶんノックはしたと思うが、ふらふらと入っていった。彼女はクライアントが滞納している税金に関する報告書の最終チェックをしていた。俺も彼女にどうしても、急ぎで最終チェックをかけてもらいたいことがあったのだ。

「ちょっと時間ありますか?」と俺は聞いた。

彼女はうなずいたが、書類を見たまま顔を上げなかった。

「魅力は何ですか? つまり、テイラー・スウィフトの魅力ってことですけど。彼女の何があなたを惹きつけて、あなたはあれを読んでいるんですか?」

ガブリエラはやっと顔を上げて、俺を見た。驚くほど深刻な表情だった。

「まず、あの子はいい曲を書くわね。それから、私たちみんなが経験するあらゆるドラマを、彼女は身をもって経験して見せてくれるのよ。―みんなが見ている前でよ。だから感情移入できるの」

「感情移入って、彼女にですか? つまり、彼女は美人で、痩せていて、お金持ちで、髪はブロンドで、たしか12歳くらいの時から、普通の生活なんて送っていませんよ。そんな庶民とはかけ離れた彼女に、感情移入なんてできるかな?」

ガブリエラが首を振る。「あなたは聴いていないのね。感情移入できるのは、彼女の歌よ。彼女は歌の中に、それを詰め込むの。それに、いずれにせよ、あの大胆不敵なミス・Sは、現実のテイラー・スウィフトとは違うわ。ギターのリフみたいなものね。テイラー・スウィフトの低流通音に乗って突き進んでるけど、ミス・Sは一人の独立した女性よ。だから私は彼女の話を読むのが好きなの。彼女は今日は何してるんだろう?って思ってね」

「でも、なぜテイラー・スウィフトなんですか? ティーガン&サラじゃ駄目なんですか? あの姉妹デュオの方が、ずっと魅力的に思えるけど」(あの姉妹はカナダ人だし、と付け加えたかったけど、それは言わなかった。)

「あなたは私について聞いてるの? それとも、あなたの彼氏がテイラー・スウィフトを選んだ理由について、聞いてるのかしら?」

「たぶん、オーウェンについて聞いてるんだと思います」

「だったら、その質問は私じゃなくて、彼にぶつけるべきね」

彼女の言い方はとても強く、俺は叱られているように感じた。

俺は今までずっとジャスティン・ビーバーのように振舞ってきたのかもしれない。俺をそんな思いにさせるほど、手厳しい言い方だった。


俺はオーウェンの仕事場に向かった。彼はコンピューターの前に座っていた。―もう画面を隠し立てするようなそぶりはなかった。彼はフェデックス・オフィスで働いていて、俺が仕事帰りに寄る時は大体、ほんの数分で作業を切り上げてくれるのだが、今日はなんだかゆっくり構えていて、すぐに切り上げる様子はない。

「邪魔しちゃった?」と俺は聞いた。

「そうだね」と彼は言い、画面から目を逸らそうとしない。「でも大丈夫。この段落を書き終えたら、夕食を食べに行こう」

分刻みではなく段落刻みで計られる区切り方に僕は慣れていなかったが、「あと5分待って」と言われたのと、それほど大きな違いはないのだろう、と思うことにした。俺は彼の肩越しに、〈大胆不敵なミス・S〉が今日は何をしているのか、覗き見た。

「それやめてもらえるかな?」とオーウェンが言った。「そこにいられると、君の鼻息が僕の首筋に文字通りかかって、くすぐったい」

俺は、ごめん、とつぶやき、後ろに退いた。その段落が終わるのを待っている間、俺はスマホを取り出して、メールをチェックしていた。


四人座れるテーブルにすべきだったかな、と思った。俺たちの横に窮屈そうに二人も座っている気がしたから。

ミス・S。

ビーバー。

オーウェンも二人の存在に気づいているようだったが、彼からは言い出さなかった。彼は俺に、何を注文するか聞いて、今日の出来事について聞いてきた。俺からその話題を持ち出すのを彼は待っている、そう俺は感づいた。

「そういえば今日、ガブリエラが君のファンだってわかったんだ」と俺は切り出した。「僕が彼女にあのブログについて話したら、彼女は本当に感激してたよ」

そう言えば、きっとオーウェンは喜ぶだろうと思った。彼は前からガブリエラが好きだったし、今では彼女が、二つの方向から彼を好きだったと判明したのだから。

しかし、彼は手に持っていたダイエットコーラを、口につけることなくテーブルに置いた。

「クラーク」彼の声は真剣そのもので、セラピー室で向かい合っているのではないかと思うくらい、辺りの空気が一気に張り詰めた。「あのブログのことは誰にも言わないでくれるかな。誰にもだよ」

「君は言っちゃだめなんて言わなかったじゃないか。そんなこと一言も言わなかったよ」

「理解してくれてると思ってたから」

「理解って何を?」

「そんなこと言わなくても、僕が他の人たちに知られたくないって思ってるのは明らかじゃないか。秘密にしておかなくちゃだめなんだよ」

「なんで? ビーバーが君の居場所を突き止めるのを恐れてるのか? ビーバーが君のところにやって来て、―そうだな、彼の初期のアルバムを無理やり君に聴かせるとか。まだ彼が小さくて肌も真っ白な少年だった頃の、カナダ人のラップだよ。いかにも君が嫌がりそうな音楽じゃないか?」

「ただ、そこは線を引いて、別々に分けておきたいだけだよ」

「法的な意味でってことか? 君が誰か分からなければ、テイラー・スウィフトは君を訴えられないって?」

「違う! 僕はただ—うまく伝わるか分からないけど、あの世界に入り込む時、僕は僕じゃなくなるんだ。それに、みんながミス・Sに話しかけたりする時、あれは僕への言葉じゃなくて、ミス・Sへの言葉なんだよ。それって凄く重要な線引きだから」

「みんながミス・Sに話しかけたり...」

「コメントしてくれたり、メッセージを送ってくれるんだよ。アドバイスを求めたりもしてくるけど、それに答えるのはそんなに難しくないよ。大体みんな、自分がどうしたいのか、すでに自分で分かってて聞いてくるんだ。だから、それをそのまま言ってあげる。きっと背中を押してほしいんだろうね。男と別れて、ミス・Sみたいに自分の力で人生を突き進んでいきたい、とか。自分を友達扱いしてくれない友人と縁を切りたい、とか」

「みんなそんなことまで君に打ち明けちゃうのか?」

「イエスとも言えるし、ノーとも言える。みんな相手がミス・Sだから、いろんなことを打ち明けるんだ。そして、彼女がそれに答える」

「ミス・Sは君じゃないってことか? そして彼女はテイラー・スウィフトでもない?」

「その通り」

「女の子たちはテイラー・スウィフトにメッセージを書いてるって思ってるんじゃないのか?」

「必ずしも女の子とは限らないよ。そしてみんな、ちゃんと二人の違いを理解してると思う。とはいえ、テイラーが歩む人生がなければ、みんながミス・Sにあれだけ肩入れして、彼女と心を通わせるってこともなかったんだろうけど」

俺は自分を抑えられなかった。「テイラー? 友達気取りかマネージャー気取りか知らないけど、君はもう彼女をファーストネームで呼んでるのか?」

彼が顔を赤らめ、そして怒りを露わにした。「うるさい。君だってフローレンス・ウェルチのことをフローレンスって呼んでるじゃないか」

「それは彼女のバンド名が、〈フローレンス・アンド・ザ・マシーン〉だからだよ」

「僕はただ、テイラーはファーストネームで呼んでほしいタイプかなって思っただけだよ。知らないけど」

「それで、魅力は何? つまり、何が君を惹きつけたの?」

「テイラーの魅力ってこと?」

「そう」

「みんなと同じだと思うよ。―僕は彼女を見て、あの田舎臭い、評判も良くない女の子が成り上がったんだと思うとね、感情移入しちゃうんだよ」



「評判も良くないって、彼女は世界一の人気者だろ」

「でもね、彼女はマドンナやビヨンセとは違うんだよ。マドンナやビヨンセは、僕たち一般人の評判なんてたわごととしか思ってない。君もそういう印象は受けるだろ。でも、テイラーはすごくそういうことを気にするんだ。それが伝わって来るんだよ」

「たしかに伝わっては来るが、それを伝えてるのは彼女の取り巻き、広報担当のスタッフだ! いいか、オーウェン―君は彼女に会ったことがないだろ。君は彼女を知ってるわけじゃない。君が知ってるのは彼女の情報だけで、その情報は彼女が君たちファンにこう思ってほしいというイメージだ」

その時、注文した料理が運ばれてきて、俺は口をつぐんだ。言いたいことは言えたし、オーウェンの胸に響いた感触もあったので、他の話題に移ってもいいだろうと思った。

「それ美味そうだな」と俺はオーウェンのブリトーを指差しながら言った。

しかし、彼はそれにかぶりつこうとはしなかった。

「これこそが、僕が君に伝えたくなかった理由だよ。どうせこういう会話になるだろうと思ったんだ。君が僕を馬鹿にするのが目に見えていた。でもね、僕は君に馬鹿にされるなんてまっぴら御免だ。君の意見は断固拒否する

俺はいわれのない糾弾にひどく腹が立った。「そういうことかよ、ミス・Sさん」と俺は返した。「俺が何を言っても、俺の意見は拒否するって言うんだな。いいだろう、今の言葉しかと受け止めた。ちゃんと〈侮辱〉の記憶ファイルにしまっておくよ。君の人生を大きく占めていたことをずっと内緒にしておいて、その理由が、俺に話しても、俺は馬鹿だからどうせわかってもらえないだろう? はっ、とんだお笑い草だな。そんな風に思ってくれて有り難いよ。君が思い描く俺のイメージは、まずまず俺の実像を言い当ててはいる。ただ、一つ足りないものがあるんじゃないか。君の本名さえも書いてないブログに君自身が感じている、たとえば、気まずさみたいな感情もちゃんと背景に描いて、その上で俺のポートレートを描いてもらわないとな」

「君は実際のところ、どれくらい読んだの?」

全部読んだよ。少なくともこれだけは認めてくれ。俺の意見は全部読んだ上での意見だ」

オーウェンがナプキンをテーブルに投げつけた。「もういい」と彼は言って、立ち上がる。「こんなことはもううんざりだ。前にこんな悪夢を見たことがあるよ。起きている間にも同じことが繰り返されるなんて、やってられない」

「座ってくれ」と俺は言う。尖った言い方はなるべく避け、穏やかに続けた。「とりあえず落ち着こう。俺たちの初めての大きな喧嘩が、テイラー・スウィフトをめぐる喧嘩なんて、泣くに泣けないじゃないか。少なくとも、しばらく様子を見よう。ほら、まだ一緒に住もうって話してる段階で、近所の人がどんな人かもわかっていないんだからさ」

彼は座らなかった。「もう遅い」と彼は言う。「僕は帰る」

「なんかメロドラマみたいに芝居がかってるな」

「ドラマじゃない。リアルだよ

彼の言い方が、何かの歌詞の引用みたいだったから、どうせテイラー・スウィフトの曲からだろうと思って、つい聞いてしまったのが失敗だった。「それってテイラー・スウィフトの曲の歌詞?」

「違う」と彼は俺をにらみつけて言った。「これがそうだよ。Why you gotta be so mean?(なんであなたはそんなに意地悪なことばかり言うの?)」

「本気で言ってるのか?」と俺は聞いた。

店を出て行く彼の背中が、その答えを物語っていた。


俺は店員に言って、ブリトーを袋に詰めてもらった。オーウェンの部屋に向かう途中、ダイエット・コーラをもう一本買い足した。彼と同じ建物に住む人が、建物自体の共同玄関に顔を出して、俺を中に入れてくれた。オーウェンの部屋には鍵がかかっていた。俺はブリトーとコーラをドアの前に置いて、立ち去ることにした。中からテイラー・スウィフトの歌声が流れている。彼女の歌声が途切れた小節の隙間から、タイピングの音がかすかに聞こえた。

俺は建物の外に出ると、彼にメールを送って、部屋の前に食事が置いてあることを伝えた。ありがとうという感謝の言葉が返ってきて、すべてが元通りになることを期待したが、その夜、彼からメールが届くことはなかった。


「誰かの彼氏や彼女になったからといって、相手の好きなものを事細かに全部好きになるなんて、そんなのありえないですよね?」翌朝、休憩室でコーヒーを飲みながら、俺はガブリエラに聞いた。

「そうね」と彼女は言った。「ただ、相手の好きなものまで好きになれれば、間違いなく長続きするわね」


・・・


休憩室を出て、自分のデスクに座った俺は、パソコンに電源を入れると真っ先に、〈ミス・S〉の最新ページを開いた。昨夜のミス・Sの動向を読むのは、怖くて仕方なかったが、読まずにはいられない。

それはいつもの綺麗なストーリーではなかった。

大胆不敵なミス・Sは、グラミー賞の授賞式でこれから歌おうとしている。彼女にとって人生に勝利した最高の瞬間になるはずだった。かつてノミネートされた最優秀新人賞は逃したかもしれないが、その他の賞はことごとく獲得してきて、今では世界中の人気者になっていた。彼女はニューシングルをこのステージで初披露する予定で、ファンたちは今か今かと待ち望んでいる。この曲もiTunesなどでたちまち何百万ダウンロードを記録することになるだろう。観客席には、少なくとも7人の彼女の元カレがいて、その全員に通路側の席が用意されていた。カメラに映りやすくするためだ。彼女がステージに上がると、瞬時にカメラが切り替わり、彼女のパフォーマンス中、逐一元カレたちの反応を映し出す演出になっている。彼らがしかめっ面をしたり、ニヤリと嘲笑うような表情をすれば、世界中がそれを目撃し、こう思う手はずだ。テイラーがその男を愛そうとしていた時にも、彼はそういう表情をして、彼女を困らせていたんだな、と。

ただ今回は、―大胆不敵なミス・Sでさえ操れない出来事が起きてしまった。舞台裏の楽屋で彼女が発声練習を終えようとしているところに、ジョニー・ギターという名前の元カレがふらふらと楽屋に入ってきたのだ。彼女の親友のアビゲイルは、彼女の好きなダイエット・コーラを買いに〈ターゲット〉に行ってしまったため、ミス・Sは楽屋で彼と二人きりになってしまった。

「もう二度と私に話しかけないでちょうだい」と彼女は強い口調で言い放った。

ジョニー・ギターは微笑んだだけで、何も言わなかった。彼は背中に担いでいたギターを手に取ると、弾き始める。

ミス・Sから急に、大胆不敵さが抜け落ちていった。

「やめて」と彼女は彼に言う。「こんなことやめてちょうだい」

それでも彼は演奏を続ける。彼はギターの達人だった。すなわち言葉を必要としない音の達人なのだ。彼女は急速に引き込まれ、音たちの会話を聞くように耳を傾ける。そして、彼女は音たちが何を言っているかわかった。彼女は周りのみんなからちやほやされ、持ち上げられているだけで、アーティストではない、と言っているのだ。彼女はプロデューサーやスタイリスト、それから(時々は)声を重ねてレコーディングするための二重録音の機材も必要としている。彼女は本物ではない。確かに彼女はギターも弾ける。だけど、ただ弾けるってだけで、ギターで何かしらの新機軸を切り開こうというわけでもない。

彼女はそろそろ楽屋を出た方がいいと思い始める。ステージでパフォーマンスする時間が迫っている。

彼のギターはその思いを受け止める。さっさと歌ってこい、とギターの音は言っている。彼女の気持ちはだんだんと萎縮してしまう。私にはこんな演奏はできない。私は見かけ倒しのえせアーティスト。お金のためにテレビに出ている、ただの子馬。

彼は言葉で何かを言う必要はない。ギターの音だけで彼女を小者にしてしまえるのだ。彼はそれを知っている。

空中から和音を引っ張り出し、音たちを華麗に操ってみせる彼の顔からは、笑顔が絶えない。

彼女は自分のギターを床に置いてしまう。なぜ私はこんなものを持ってステージに上がろうとしていたのかしら? 彼女はステージに上がることすらできなくなる...

俺は読むのを止めた。止めたいから止めたわけではなく、そこで終わっていたからだ。

彼がここにいてくれればいいと思った。今すぐ聞いてみたかった。君は本当にこんな風に俺を見ているのか? 本当に俺がこんなことをするとでも思っているのか?

この「笑顔が絶えない」という描写は適格ではない。俺は昨夜一度も笑顔にならなかったし、今だって笑顔を浮かべていない。

俺は彼にメールを送った。俺は笑顔なんか浮かべてない。動揺してるんだ。

彼が仕事中なのはわかってる。今すぐ彼の仕事場に行って、話し合いたい気持ちだったけれど、それも無理な話だ。俺が今できることは限られていて、それが何かもわかっていた。

俺はガブリエラのオフィスに入って行き、ドアも閉めずに、こう言っていた。

「今日は早退させてください。今すぐ家に帰って、俺はテイラー・スウィフトの曲をたくさん聴かないといけないから」

彼女は俺を見てうなずいた。事情はすべてわかったわ、と無言で告げていた。

もし職場の誰かに俺のことを聞かれたら、家族の緊急事態だと答えておくから、と彼女は言った。

家族の緊急事態。それは真実からそう遠くはない表現のように感じた。


・・・


家に帰ると、俺はテイラー・スウィフトの今までにリリースされた全曲をダウンロードした。オーウェンはそういうところにこだわるから、ちゃんとお金を払ってダウンロードした。

時系列順に古いものから聴いていくことにしたのだが、これには多少の忍耐が必要だった。彼女のファーストアルバムのジャケット写真からは、将来大成する気配はまるで感じられない。―なんだか低予算のシャンプーコマーシャルのオーディションで、なまめかしい人魚姫役になりきろうと無理をしているみたいだ。ファーストアルバムの曲は、俺にはあまり響かなかった。甘い恋愛ソングも悲しい曲も、大した違いを聴き取れなかった。―すべての曲を彼女は同じトーンで歌っていた。そこには10代後半特有の、律儀な真面目さだけが溢れていた。ファーストアルバムを聴いた後、俺は自分の音楽的好みを再確認するために、フィオナ・アップルの『Criminal(犯罪者)』を大音量で聴く必要があった。

セカンドアルバムでは、よりグルーヴ感が増していた。俺が知っている曲も何曲か入っていて、ほとんどの曲が悪くない。2008年に過剰なくらい大々的にさまざまメディアで流されていた曲の中にも、音楽的に見事な瞬間がいくつもあり、今ではめっきり耳にしなくなったためか、余計にその素晴らしさが際立っていた。

俺は聴き続けた。アルバム『1989』に至った時には、俺はある種のフーガ的状態にいた。音階が俺の周りでループしているような感覚だった。そして、『Out of the Woods(深い森を抜け出して)』にぶち当たった時、俺の中で何かが絡み付いてくる感触があったのだ。ブリーチャーズのボーカルが作曲した曲だとか、彼がコーラスにまで参加しているとか、そんなことはどうでもよかった。真に意味のある歌詞が3行ほどしかなくても、べつによかった。俺の恋愛履歴が、テイラー・スウィフトのジェットコースターばりのロマンス遍歴と似通っていたから胸に響いた、とかでもない。とにかく俺はその曲に引きずり込まれ、すっかり虜になってしまった。立て続けに3回聴いてから、アルバムの残りの曲を聴き、それからまた『Out of the Woods』に舞い戻り、リピート再生した。

夕食の時間が過ぎ、夜が更けていった。それでも俺はヘッドフォンでその曲をループさせ続けた。

俺は自分がこの現象を不思議に思っていることに気づいた。何がこの曲をグレート中のグレートに押し上げているのか? この曲のメッセージか? いや、違う。全く同じことを言っている曲なんて、世の中に何千とある。ただ、メッセージは同じであっても、この歌特有の伝え方に、その神秘が隠されている気がした。彼女から発せられたメッセージが、俺の耳に届き、そして長く留まり続けるのだ。俺の心の中にそれがホームとして根付いてしまうくらいに。

俺はオーウェンにメールを送った。

ポップミュージックの面白いところは、ポップと言いながら、一瞬で弾けないところだね。膨らんだ泡が、そのままずっと持続するんだ。

通常だったら、☺という絵文字だけの返信が届いただろう。でも、今回は1分ほどして、彼の言葉が返って来た。

まさにそうだね。

俺はまだ森を抜け出してもいないし、平原に出て視界が開けたわけでもない。

iTunesをオフにしても、その曲は俺の中でまだ再生され続けていた。俺はぼんやりとしたまま、歯を磨いた。一日着ていた服を脱ぐ時、鏡に映る俺の瞳に、ジェームズ・ディーンのような色が浮かんでいた。まさに彼女の歌う歌詞の通りだ。ベッドに入り、スマホを片手に、彼からの連絡を待ちながら、俺は再び深い森の奥深くへと入っていった。out-of-the-woods-out-of-the-woods-out-of-the-woods...

明日は? とだけ俺は彼にメールしてみた。

俺が眠り込む直前に、彼から返信が来た。いいよ。


翌日、オフィスに着くと、ガブリエラを探し出す必要はなかった。彼女は俺を待ち構えていた。

「まず最初に処理しなければならない事はこれよ」そう言うと、彼女は請求書の束を俺に手渡した。これをデータ化するのが俺の仕事だ。「それからメールボックスもチェックしてね」

俺は書類の束を脇に置いて、最初に彼女からのメールを開いた。チケット売買サイト〈スタブハブ〉のリンクが貼ってあり、リンク先に飛んでみると、来週の木曜日にブロードウェイの〈ユナイテッドパレス〉で行われるテイラー・スウィフトのコンサートのチケットが掲載されていた。

チケットの値段は、なんと婚約指輪に相当する額に跳ね上がっていた。少なくとも〈ターゲット〉では、俺はそんな金額の買い物をしたことは一度もないし、俺の一生分のダイエット・コーラ代に匹敵しそうに思えた。

もちろん、オーウェンはすでにこのチケットを持っているかもしれない。彼の人生の俺から見えない部分では、それはありえた。俺が言えることは、このチケットはなかなか手に入らない代物だということだ。―彼に確認だけでもしてみようか。

今夜会える? と俺はメールした。それと、来週の木曜か金曜は空いてる?

すぐに「入力中...」とスマホ画面の左下に表示され、

その3日に関しては全部空いてるよ、と彼から返ってきた。

俺はこれから使おうとしているお金でできることを計算せずにはいられない。ロンドンへ飛べる。上等なソファーを買えるし、質の悪いソファーなら3つも買える。ブロードウェイで公演中の『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』を10回以上見れるな。

でもこれは、これこそが、彼が望んでいるものなのだ。金額が同等の他のどんなものでもなくね。

俺はチケットを買った。


「あなたのおかげで、だいぶ出費がかさみましたよ」俺はガブリエラのオフィスに頭だけ突っ込んで、そう言った。

「行動が早いわね」と彼女は答えた。


デスクに戻ると、ミス・Sの動向をチェックしてみた。続きはまだ書かれていないだろうと思った。―オーウェンの今までの更新間隔は、3日に1度といった感じだったから。しかし、今回は続けざまに更新されていた。新しい書き込みがあり、更新時刻は(東海岸の標準時で)午前3時と表示されている。

前回ストーリーが途絶えたところ、彼女の楽屋の場面に戻る。大胆不敵なミス・Sは、うっとりとジョニー・ギターの顔を見つめている。彼の指から繰り出される魅惑の魔術にすっかりかかってしまった様子だ。楽屋の外から、彼女がステージ上に現れるのを今か今かと待ちわびる観衆の声援が鳴り響いていたが、彼女の耳には入ってこなかった。彼女に聴こえるのはジョニー・ギターの正確極まる演奏だけで、その妙技に彼女は身も心も心酔しきっていた。彼女の目尻に涙がたまり始め―

やがてまばたきと同時に、涙が頬を伝った。

彼女の元カレたちが彼女の自尊心を取り戻そうと、バールを使って楽屋の鍵をこじ開けようとしている中、彼女は床に置かれた自分のギターに手を伸ばす。彼女は自分が彼ほど上手く弾けないことを知っている。彼女は彼がブルースの達人だと知っている。そして、自分はブルースの「青」にはほど遠い、ピンクと赤に染まったミュージシャンだと知っている。ミュージシャンだとさえ、誰にも認知されていないことも知っている。それでも、彼女はとにかく演奏を始める。彼が滑らかにストリングスを弾き、痺れるような哀愁の音を紡いでいる中、演奏に加わった彼女は、シンプルなメロディーを弾き出した。彼はテンポを上げる。彼の顔から笑顔が消え、汗がにじみ出す。彼女は自分自身の曲のメロディーに乗せて、ハミングしながら、楽屋の中の他の音を無視する。頭の中に浮かびくる声も無視する。先ほどまで、お前は上手くなんかなれない、お前は強くもなれない、お前が尊敬されることなどない、と彼女自身に降りかかってきた声を、ハミングでかき消した。彼女はいわば、オーケストラを引き連れた笛吹きだった。ジョニー・ギターの顔に、こんなはずじゃなかった、と焦りの色が浮かぶ。彼の指先はたこが重なり、硬くなっている。―ひび割れ、出血しても、もはや何も感じないほどだ。大胆不敵なミス・Sは、自分の歌の中に留まり続ける。自分の歌の中に安らぎを見出し、たとえ彼女自身しか聴いていないとしても、自分の歌を演奏し続ける。それが一番大事なことだから。自分が聴いていることが何よりも重要だから。

ジョニー・ギターが雄叫びを上げた。ギターはハウリングを起こしたように荒れ狂い、彼は床にごろんと転げ落ちたかと思うと、火の玉に包まれるように燃え尽きた。彼は芸術のために死んだのだ。芸術なんて死に値するはずもないのに。大胆不敵なミス・Sは、彼の屍を越え、楽屋を出ると廊下を歩いていった。その間、ずっと彼女はギターをかき鳴らしていた。廊下にはコンサートスタッフやバンドメンバーが立っていたが、みんな彼女の歩きながらの演奏を邪魔しないように、うなずきながら彼女を見守っている。観客の前に立つ前に、最後の仕上げとしてメイクアップを施す手はずになっていたのだが、彼女は長年連れ添い、絶大な信頼を寄せるメイクさんの前を素通りしてしまった。親友でマネージャーのアビゲイルにさえ見向きもせず、彼女はまっすぐにステージを目指す。アビゲイルは気を利かせ、彼女の後を追うと、彼女がステージに上がる直前、アンプから延びるプラグを彼女のギターに突き刺した。彼女はビートを止めることなく、そのままマイクの前に立ち、歌い始めた。観客たちは各々にジャンプし、床を揺らす足自体が楽器となって、彼女の新曲に熱いリズムを添えていた。

アビゲイルは微笑みながら、さっきまで運んでいたダイエット・コーラが12本入ったケースを再び持ち上げた。アビゲイルがミス・Sの楽屋に入った時には、すでにジョニー・ギターの姿はなかった。―彼の革ジャンとギターの燃えさしが、残り火をチラチラとさせながら、床に転がっていた。

楽屋のスピーカーから、アビゲイルは〈大胆不敵なミス・S〉のステージ上での勝利の歌声を聴くことができた。曲が終わると、ミス・Sは熱狂する聴衆に向かって、一言だけみなさんに伝えたいことがあります、と言った。

「ポップミュージックの面白いところは、ポップと言いながら、一瞬で弾けないところですね。膨らんだ泡が、そのまま、ほら、ずっと浮かんでる...」


俺たちは彼が住む共同住宅の近くのイタリアンレストランで夕食を共にした。あれからまだ二日しか経っていなかったが、彼に会うのは久しぶりのような気がした。誰かを愛し始めると、離れている間の感情的な距離は、時間そのもののように、いつでも歪んでしまう。

彼に謝ることから始めるべきだとわかってはいた。だけど俺は、謝る代わりに、どれだけ彼に会いたかったかをまず伝えた。

彼は、まだ二日しか経ってないよ、とは指摘しなかった。彼もまた俺と同じように、切実な時空のゆがみに耐えていたのだろう。

俺は続けて、〈大胆不敵なミス・S〉を、更新されるたびに読んでいることを伝えた。「あの楽屋の場面では、ハラハラ心配しちゃったよ」と俺は言う。「ジョニー・ギターはかなり手ごわかったな」

オーウェンは椅子に深く腰を下ろし、背もたれに寄りかかって言った。「ハラハラしたとか、僕に気を遣って茶化す必要はないよ」

「茶化してなんかない! 俺は本気でハラハラしたよ。―リアルみたいだった。まあ、ジョニー・ギターっていう彼の名前はちょっと変というか、リアルっぽくなかったけど」

オーウェンはふふっと笑みを浮かべた。「彼がなぜそんな名前なのか、君にはわからないだろうね」

「わかった方がいいのか?」

「いや、わからなくても大丈夫。昔の映画に『Johnny Guitar』っていう西部劇があって、ジョニー・ギターっていう名の荒くれ者と、彼の元恋人の女主人公が戦うんだよ」

俺はてっきり、ギターの名手チャック・ベリーの『ジョニー・B・グッド』をもじった名前かと思っていた。

「昨日は一日中、テイラー・スウィフトを聴いてたよ」と俺は言う。「それからずっと、今もまだ俺の頭には彼女の歌声が流れてる。彼女の音楽にはサブリミナル的に誘発剤が埋め込まれているんじゃないかって疑うよ。中毒性のあるやつだな。それが脳内に留まって、勝手に音楽を鳴らしてる感じ。もしそうなら、驚くほど効果抜群だ」

「どのアルバムを聴いてたの?」

「全部だよ。昨日は全部聴いた。今日は『1989』ばかり聴いてる。Welcome to New York(ニューヨークへようこそ)って彼女に言われ続けてるわけだ...カナダからニューヨークにやって来た俺が、まさか彼女に歓迎されるとはな!」

「君があの曲を気に入るなんて、信じられないよ」

「俺はあの曲に屈したんだ。彼女に負けたんだよ。歌詞は陳腐だし、サウンドは80年代の寄せ集めだし、彼女が同性愛者に向かって声を上げてくれても、『ああ、それはどうも』くらいしか思わない。だけど、あの曲を聴いている間、俺はずっと考えていたんだ。テイラー・スウィフトがニューヨークに引っ越してきた時、彼女はデザイナーズビルの最上階の、ベッドルームがいくつもあるようなペントハウスに引っ越してきたはずだって。それは一般的なニューヨークへの上京物語じゃないだろ。彼女は子役上がりだから、無一文でニューヨークにやって来た学生が、バイトしながら公園で歌の練習をして、みたいな経験はしてないんだよ。ただ、そう考えると、逆にあの曲が俺の胸を痛烈に打ったんだ。彼女は彼女自身が絶対に経験することのできない経験を歌っている。悲しいことじゃないか。彼女は上京したての学生になりたくてなりたくて、仕方ないんだ。その気持ちが心に響くんだよ」



オーウェンはうなずく。「それは僕もずいぶん考えたよ。テイラーのように裕福で環境が整ってる女の子でも、そういう感情を抱くのならば、より正当性が高まるんじゃないかって。どんな人も、胸が張り裂けるような悲痛な思いとか、疑念からくる不安感から逃れられないってことだね。彼女みたいな女の子が言ってくれたら、そういう感情が...より広く共有される、気がする」

突然、俺は胸が詰まるような思いに襲われた。

「どうしたの?」とオーウェンが心配そうに聞いてくる。「なんか苦しそうだけど?」

「そういう悲痛な思いとか、不安感とか、君にはそんなことを考えて欲しくないんだ」と俺は彼に言う。「そういった感情は、君から一番遠いところにしまっておいて欲しい」

「ああぁぁ」とオーウェンは声を出しながら、手を伸ばし、俺の手を握りしめた。「そういうんじゃないよ。べつに今の僕が、テイラーに共感してそういう思いを抱いてるわけじゃない。今はちゃんと距離を置いて、しまってある。ただ、僕は過去にそういう感情に囚われたことがあったし、これから先もきっと、何度となくそういう時が来る。それは君と一緒にいるからじゃない。僕が人間だからだよ」

俺は彼の手から自分の手を引き抜くと、バッグに手を伸ばした。「君に渡したいものがある」と俺は言う。

俺の手は自分でも知覚できるくらい震えている。この前会った時、俺たちの関係は一歩後退してしまった。その距離を埋めるべく、ジャンプしてみたはいいけれど、彼に届くどころか、彼を追い越してしまった感が否めない。俺たちは付き合い始めてからの1年で、お互いに向けて何百もの小さな意志表示をしてきたが、これが初めての大きな意志表示になる。少なくとも初めての、大枚をはたいて買った気持ちの印だ。彼に知ってほしいのは、俺が彼を愛していて、彼を幸せにしたいということだ。これはそれを示したい品で、俺みたいなケツの穴が小さい男に興味を持ってほしいとか、彼を繋ぎ止めておきたいとかじゃない。

地下鉄に乗ってここに来る途中、俺は何度も彼に言いたいことをぶつぶつと練習してきた。テイラー・スウィフトのおバカさんが俺たちのことを歌ってくれてるな。君の居場所は俺で、俺の居場所は君だって。俺たちは一緒にいれば、いかに安心安全かって。あるいは、もっと直接的な表現で、俺はおバカさんだけど、君が創り出すものは何でも応援したい。それがどんな形の制作物でも、俺は応援するから、と。全部本当の気持ちだった。しかし俺はどれも言うことなく、「これ」とだけ言って、バッグからプリントアウトしてきた紙を取り出し、彼に手渡した。それから俺は、彼が二つ折りの紙を広げて、そこに書かれた文字を読む間、息を止めてただ座っていた。

「え」と彼が言った。「マジで? っていうか、―どうやって? マジ?!?

「マジだよ」

今度は、手を伸ばすといった控えめな行為ではなく、彼は椅子から飛び上がるように立ち上がり、テーブルを回ってこちら側に来ると、俺に抱きついてきた。俺は椅子に座ったままで、彼が立っているというのは、なんだか気まずい体勢だったけれど、俺は彼をいつもより少し長めに抱きしめていた。彼もそうしていた。

彼は椅子に戻ると、聞いてきた。「でも、これどうやって手に入れたの? このコンサートのチケットは、10秒かそこらで即完売したはずだよ。ケーブルテレビのHBOで放送するから、それを見ようと思ってたんだ!」

「俺にはコネがあるからな」と俺は答えた。

彼は俺がいくら払ったのか、今後も絶対に、知ることはないだろう。


これですべて元通りというわけにはいかない。俺たちの間に何も起こらなかったことにはならない。前と違うのは、そこにもう一つの要素が加わったことだ。その要素とは、〈大胆不敵なミス・S〉の存在だ。

その夜、俺たちが彼の部屋に戻ると、彼はまっすぐにノートパソコンに向かった。今では〈ミス・S〉の続きを書くのだろうとわかっていたから、俺は何も聞かなかった。彼はヘッドフォンをつけて、カタカタと文字を打ち始めた。俺は彼の寝室に置いてある小さなテレビをつけて、小さな音量でそれを見ていた。

45分ほどした頃、彼がヘッドフォンを外して周りを見回した。ぼんやりとした表情だ。

「どんな感じ?」と俺は彼に聞く。

「いい感じだよ」

〈ミス・S〉が今どんな状況なのか、聞いてもいいものかどうか迷った。それは彼のプライベートな内なる世界だと知っていたから。―でもそれは、彼がしかる後に公開する世界でもあるんだよな。

俺は試しに聞いてみることにした。「次に何が起こるか教えてくれる? それとも、君が書き終わるまで待った方がいい?」

彼は椅子にもたれると、俺を見た。「どうかな。そういうことは今まで考えたことがなかったよ。君を除け者にしたくはないけど、書いてる間は誰にも見せたことがないし、不安だから、ある意味でね」

「意地悪なことは言わないって約束するよ」と俺は言った。

「違う、違う。―そうじゃない。君が意地悪なことを言うとは思ってないよ。でも、君がどう思うかを気にしすぎちゃう気がする。まだ書いてる段階で君を中に入れてしまったら、僕は君のために書くようになるよ、きっと。君はそんなこと求めてないこともわかってる。けど、どうしてもそうなっちゃうから。何千人という見知らぬ人のことを考えて書く方が、よっぽど楽」

これは納得できた。それでも俺は少し傷ついた。しかし、恋をするということは、少しの傷を抱えながら生きることに他ならないのだ。だから、俺はそれを受け入れた。


「新たな領域」リムジンに乗り込み、グラミー賞授賞式の会場を後にしながら、〈大胆不敵なミス・S〉はアビゲイルに言った。「私たちは新たな領域に向かってるわ」

「それは良いことなんでしょう?」とアビゲイルが尋ねる。

〈大胆不敵なミス・S〉は微笑み、座席にもたれて、窓の外をちらっと見やった。リムジンが走行するカリフォルニアの地を超えて、はるかかなたの遠い領域を見つめる。

「もちろんよ」と彼女は言った。


俺は何もかもに幸せを感じた。

〈ユナイテッドパレス〉のロビーは、隅々まで黄金に輝く装飾で覆われていた。そこは、ピアニストのリベラーチェが舞台で演奏する時に着ていた衣装のキラキラを思わせた。あるいは、ジーニーが飛び出してくる魔法のランプの中はこんな感じかもしれない。

周りの人たちの興奮した熱気が充満している。ここにいるすべての人が、ここに来ることが叶ってラッキーだった、今日まで生きていてよかった、と感じているのが伝わってくる。

若い10代の女の子が、自分で作ったらしい〈大胆不敵なミス・S〉のTシャツを着ている。それを見たオーウェンの表情。彼は彼女に声をかけたりしない。すでに〈大胆不敵なミス・S〉は彼だけのものではないのだ。彼女は彼女自身のミス・Sとともに生きている。

俺たちはバルコニー席に着く。オーウェンはじっとしていられない様子で、立ち上がったままだ。

会場の明かりが消えた瞬間、世界の認識が切り替わり、畏敬の念が湧き立った。

暗くなった空間に歓声がこだまする。すっかり心を奪われてしまった俺たちは、ただ目を見開き、味覚も含めたあらゆる感覚を全開にする。高揚感が極まりつつあるところで、サウンドがやって来た。

俺のボーイフレンドが、「オーマイガーオーマイガーオーマイガーオーマイガー」と言い続けている。舞台上にオーラをまとった女の子が現れた。その女の子は彼がよく知っている女の子だ。あるいは彼が全く知らない女の子かもしれないが、どちらでもいい。

彼がちらっと俺を見た。―俺が何を考えているのかを気にしているのではなく、彼の驚嘆を共有したいのがわかった。

どの曲も俺を幸せにしてくれる。悲しい歌でさえも。きっとそれが人生の秘訣、だよな? 悲しい曲でさえも幸せになれる場所があるんだ。そこにたどり着けたなら、どんなにラッキーなことか。悲しみは人生に欠かせない要素だと感じさせてくれるから。どんなに困難な状況でも、音楽があることに気づかせてくれるから。

しかし、どの曲よりも、彼女が『Out of the Woods』を歌い始めた時、超越した幸福感がほとばしった。―それは喜びであり安堵でもあり、草原に抜け出たような見晴らしの良さだったり、俺たちが望んでいた何もかもが詰め込まれた、3分56秒の至福の時だった。

共に歌う幸せ。

俺が愛する男の子と共に歌う幸せ。

彼の横顔を見ると、彼の瞳が輝いていて、彼も同じように幸せなんだとわかる幸せ。






〔感想〕(2020年11月3日)


いやー、素晴らしい。何もかもが素晴らしい!(藍が書きたかったことを先に書かれちゃった...爆笑)

ミステリーっぽく始まって、どうなるのかと思いきや、ブログをめぐる話へ...というストーリー展開から、テイラー・スウィフトの曲の挿入、「小説内小説」の目を見張るほどのディテール、ボーイフレンドとの関係の危機を『Out of the Woods』の曲になぞらえて、「深い森」を抜け出し、二人の絆が強まったというテーマ、何から何まで、ため息が出ちゃうほど素晴らしい💙


ただ一つだけ。物語の最初の場面で、共同住宅の共通玄関から出て来た女性が、最初に登場したっきり最後まで出てこなかった。(まあ、短編小説だから、仕方ないか...)

あと、主人公は職場でブログばっかり覗いていて、パラノイアはいいけど...仕事は?笑



まだ19(曲)の短編を全部読んだわけではありませんが、

藍的には、このトラック 11『深い森』がベスト中のベストになる予感がするので、一旦ここでひと区切りとします。←一旦っていつまで?笑←気が向くまで...←それって10年以上前に、ふられた時に言われた台詞でしょ?爆笑←いや、ふられたんじゃなくて、まだ気が向いてないんだと思う。






10曲目:雪の日(『19曲のラブソング』所収)

雪の日 by デイヴィッド・レヴィサン 訳 藍(2020年7月17日2020年8月29日



トラック 10

雪の日


エイブリーとライアンの5回目のデートの日、雪が降った。

二人が暮らしている地域では毎年たくさんの雪が降るし、取り立てて大騒ぎするほどのことでもないのだが、―それは今年最初の雪だった。初雪というのは、毎年変わらず、不思議と驚きをもたらすものだ。木々は黄金色の冠をすべて脱ぎ捨てたわけではなく、ちらほらと葉っぱは残っていたが、冬はもはや否定できないほど間近まで迫っていた。日に日に昼間は短くなり、毎日1分か2分ずつ、太陽の光が夜の闇に飲み込まれていった。ただ、それは突然の雪のように誰もが気付くものではなく、ひっそりと日光は夕闇にこぼれ落ちていった。

エイブリーとライアンが同じ町に住んでいたなら、雪はデートにさほど影響しなかっただろう。二人がお互いへの距離を縮める速度は、雪によってある程度は遅くなったかもしれないし、雪が二人を多少慎重にさせはしただろうが、同じ町ならすべては計画通りに進んでいただろう。突然の雪に見舞われた時、ライアンはエイブリーの家に車で向かっていた。順番的にライアンが出向く日だったわけだ。彼らがどこか別の場所に住んでいたなら、途中で待ち合わせるという手もあったかもしれないが、何しろ二人の家の間には何もなかった。実際、半径50マイル以内には、映画館が二つと、レストランが数軒あるだけだった。かつては賑わっていた商店街は今ではすっかりうらぶれてしまい、安さを売りに商店街から人々をごっそりとかっさらっていった〈ウォールマート〉がドンッと建っているのみである。そんな場所でも、二人でぶらぶらと、過ごそうと思えば過ごせるかもしれないが、遠慮したくなる気持ちも当然で、特に、今度のデートこそは何かしらの進展を、と意気込んでいるなら、なおさらそんな所で時間を潰したくはないだろう。そしてこの日、エイブリーとライアンは、お互いにそういう気持ちだったのだ。

二人の出会いはダンスパーティーだった。―ドレスやタキシード姿で踊るプロムパーティーが有名だが、そのゲイバージョンだった。―青い髪の少年(ライアン)と、ピンクの髪の少年(エイブリー)がお互いを見つけた瞬間、それぞれの心が音楽と色で満たされた。恥ずかしさが湧き上がり、すぐにその恥ずかしさを乗り越えたいという切実な、謎の衝動に襲われた。初デートの時、二人はエイブリーの叔母の家のそばの小川まで行き、ボートに乗って小川を下った。二人とも、これまで誰かとプライベートな話をする機会は全くなかったので、特にデートのようなお互いの内面を分かち合う機会はなかったので、おずおずと過去の自分の亡霊を呼び起こすように話し、未来の自分自身の理想の姿を語った。―自分の内面をさらけ出すことは、恐れていたほどの大勝負ではなく、少し拍子抜けした。

2回目のデートは、ライアンの町のゴルフ場に行った。といっても、すでに営業していないゴルフ場で、コースはすっかり荒れ果てていたのだが、二人は架空のクラブをスウィングするふりをしながら、見えないボールを追いかけ、ゴルフを楽しんだ。そこで二人の関係も営業を停止し、廃れていく恐れもあったのだが、なんとか持ちこたえた。いわば、ロマンスが、馬鹿なことをしてはっちゃけたいという欲求に勝ったのだ。ライアンはバンカーや池を避けながら慎重にショットするように、おちゃらけて関係を台無しにすることなく、コースを回り切った。3回目と4回目のデートは、比較的シンプルなデートだった。―映画を見たのだ。まずエイブリーの家のソファ(3回目のデート)で映画を見て、次にライアンの地元の映画館(4回目のデート)で映画を見た。ライアンはエイブリーの両親に会ったことがあったのだが、エイブリーはまだライアンの両親に会っていなかった。エイブリーに問題があるから会わせないのではなく、ライアンの両親の方が、まだ心の準備ができていないのだ。エイブリーもそこは心得ていた。髪を青く染めた息子が、髪をピンクに染めたボーイフレンドを家に連れて帰る事態は、ライアンの両親にとって想定外なのだろう。(ピンクだからというわけではなく、髪が何色であっても、ボーイフレンドを連れては帰れないのだ。)

一方、エイブリーの両親は前から理解があった。―彼自身が自分は男の子でいなくちゃいけないんだと気付く前から、両親は理解していた。彼がそれっぽい振る舞いをするようになっても、両親はそれを否定しなかったし、エイブリーに「そんなことしちゃだめでしょ」と言い聞かせることもなかった。そして、ライアンがエイブリーの人生に現れた。エイブリーはすぐに彼を両親に会わせ、両親の人生にもライアンを登場させた。エイブリーとしては両親がどんな反応をするのか、半信半疑なところもあった。いわば、彼の人生の新たなチャプターが始まろうとしているわけで、それを親にも読ませようとしているのだがら、少しは緊張もしていた。やはりと言うべきか、両親はライアンを快く歓迎してくれ、エイブリーは胸をなでおろした。一方、ライアンにとっては、このような歓迎ムードは意外だったようで、彼は終始どきまぎしていた。彼自身の両親は何でも彼の行動を否定してくるタイプだったこともあり、すんなり受け入れてくれたよその家の両親を前にして、どのように振る舞ったらいいのか、わからなくなってしまった。エイブリーの両親が友好的であればあるほど、自分の言動がどんどんぎこちなく、おかしな方向へと進むのを止められず、彼は悲しい気持ちになっていった。次に会った時には、もっとスムーズに振る舞いたい、そう彼は願っていた。

ライアンは車のキーをつかんで家を出た時、天気予報をチェックしなかった。学校では雪についての話題も語られていたのかもしれないが、ライアンは学校では耳の受信ボリュームをひねるようにして、周りの雑談は聞かないようにしていた。大概はくだらない、あるいは悪質な噂話で、まだ天気予報を聞いていた方が有益だからだ。最初にひとひらの雪がフロントガラスに当たった時、小さな半透明のクモが空から落ちてきて、フロントガラスに当たった衝撃で潰れ、体の跡を繊維状に残したのかと思った。その雪の結晶は徐々に数を増し、フロントガラスを埋め尽くしていった。あと10分もすれば、エイブリーの家にたどり着く距離を走行していた。ワイパーをオンにして、車を減速させる。雪片が空を白く染めてゆく。突然の雪の到来に、思わず笑みが零れてしまう。形のない空気から固形物が発生し、落ちてくるさまは、まるで魔法を見ているようだった。雪よ、アクシオ(来い)!

エイブリーの家にはすでに何度か行っていたし、ライアンとしては通い慣れた道だという認識だったのだが...雪に見惚れていたせいもあるのか、どこかで違う方向へハンドルを切ってしまったようだ。でもまあ、正しいルートに戻ればいいだけのことだと気楽に考え、車をUターンさせた。エイブリーに電話をかけて道案内を頼むという手もあったのだが、代わりにスマホのナビ機能の助けを借りて、正しい道に引き返すことにした。自分の記憶や経験を頼りに、人生の道も自力で切り拓くことができるとエイブリーに思ってほしかったから。(5回目のデートとなれば、この先6回、7回、8回と逢瀬を重ねることができるかどうかの岐路に立っているともいえるから。)

エイブリーは窓際でライアンを待っていたので、雪にもすぐに気づいた。窓際で彼が現れるのを待っている時間というのは、胸に喜びがどんどん降り積もっていくようで好きだった。雪はそれほど激しい降り方ではなかったから、胸に積もった喜びが、スリップしてスピンアウトするように、心配へと滑り落ちていくこともなかった。全く心配に気持ちが傾かなかったわけではないが、ライアンが事故に遭ったり、やむを得ず家に引き返してしまうなんてことは頭をよぎらなかった。それよりも、目の前で繰り広げられる雪の演出に心を奪われていた。複雑に入り組んだ模様を織り成しながら、無数の雪片が次々と舞い落ち、徐々に世界を変え、しかるのちに一変させてしまう衝撃に、胸を打たれ、ただ立ちすくんでいた。

ライアンの車が雪景色の中に現れた時、エイブリーの心に積もった雪は、まさに重力に反して、舞い上がった。その時だった。―窓の外で実際に不思議な突風が吹きつけ、雪がふわっと上昇するのを目撃した。雪の舞い。ライアンの車が私道にずんずん入ってくるのを見つめながら、エイブリーの心は興奮の嵐だった。

彼はなんとか心の動揺を抑えようとした。心に門番を置いた形だったが、その門番は気もそぞろで、任務を遂行する気はさらさらないようだった。興奮を奥の倉庫にしまい込んだまではよかったのだが、扉には鍵がかかっていなかった。そんな無防備な形で人を好きになるのは、危険だとわかってはいた。

緊張感もあった。ライアンは何度か家に来たことがあったが、ちょっと立ち寄った感じの短時間の訪問だったし、ほとんどの時間を家族もいるリビングルームで過ごしていた。しかし今回は、もっと深いところまで入り込んでくる予感があった。自分の部屋は彼が入って来てもいいように体裁を整えたが、家全体をどうにかできるはずもなく、廊下など至る所に家族写真が飾られていた。彼の母親が家族の軌跡を写真として残すのが好きなのだ。その中には子供の頃のエイブリーの写真もたくさん含まれていて、あどけない彼が写っていた。まだ世界を認識する前のエイブリー、世界と自身の認識の不一致を自覚する前のエイブリーが写っていた。母親はこのことに自覚的だった。つまり、過去は隠す必要はないというスタンスで、過去を消そうとすることは、傷口を広げるだけだと気づいていた。彼女は、過去の自分と仲良くした方が心穏やかに過ごせるわ、と言った。エイブリーもそういう気になっていた。何も隠す理由はないし、かつての自分を捨て去る必要もない。そんな単純なことではなく、もっとややこしい事態が生じる予感もあったが、同時に両親を信頼してもいた。エイブリーの親は、どんなことに対しても冷静に判断して、うまく対処するのだ。だから写真のことも親に従って、外さない方がいいと思った。写真を外すのはフェアじゃない、と。改めて写真をひとしきり眺めてみると、エイブリーが幸せそうに笑っているものもあれば、そんなに幸せそうには見えないものもある。実際の心のうちはエイブリーにしかわからない。笑顔の下でどんな感情が流れていたのか、エイブリーだけが心の小川を見下ろすことができた。まだ子供だった頃でさえ、見下ろすことができた。

ライアンが家に来るからといって、今さら親に写真を外してほしいなんて言えるはずもなかったし、自分の過去の見栄えのいい部分だけを残して、あとは切り落としてしまうなんて、愚かな行為だとわかっていた。あたかも逆であったかのように、取り繕って見せても何の意味もないのだ。ただ、エイブリーにとって、ライアンに真実を伝えることは、最も胸躍ることであると同時に、最も恐れていることでもあった。無理に演じようとしないこと。むき出しのまま、お互いをさらけ出して話をすること。これは、二人がお互いの中に認めている共通した美徳だった。

包み隠さず自分を見せるというスタンスは、ライアンにとっても不安ではあったが、その不安感は、彼が喜んで乗り越えていきたいものだった。たとえば、家の外に真っ白な、不安感という名の雪が積もっていて、それでも彼は車に乗り込もうと、ザックザックとその雪を踏みしめ、歩みを進めたい、といった心境だった。エイブリーの家の私道に車を入れた時、窓際に立っているエイブリーの、ピンクの髪が見えた。彼のすぐ隣には電灯が置いてあるようで、ぼんやりと彼の輪郭を浮き上がらせている。まるで空が雲で覆われた薄暗い日の、陽射しのようだった。ベリンダ・カーライルの歌の歌詞が、彼女の風をとらえたような歌声に乗って、頭をよぎった。leave a light on for me(私のためにそっと明かりを灯しておいて)、このフレーズはこれまでに彼の耳を吹き抜けていった多くの曲の中で、最もロマンチックな愛の表現の一つだと思っていた。誰かと恋に落ちた時、いわば交代で灯台の番人になる、という考えがライアンは好きだった。たとえそれで夜通し起きていることになっても、暗闇の中で目を凝らしながら、相手のことを見守っていたかった。そのうち暗闇に目が慣れてきて、愛が形を取り戻すまで、隣でそっと明かりを灯しておきたかった。

ライアンが車を停め、ワイパーも止まると、瞬く間にフロントガラスが雪で覆われた。ヘッドライトを消した瞬間、周りの世界が完全なる自然界と化し、純粋な静寂が訪れた。彼にとっての灯台の番人が、そっと明かりを灯して、窓の中で待っていた。それでも彼はすぐには車を降りず、運転席に座ったまま、数秒間、雪の音楽に耳を澄ませた。かすかに聞こえる電話のベル音のように、無数の雪片が次々とフロントガラスにぶつかる音は、さながらコソコソと内緒話をしているようだ。彼はドアを開けて、私道に薄っすらと降り積もった雪をスニーカーで踏んだ。風が吹きつけ、寒さが耳を襲い、指もひんやりした。彼は玄関に向かって早足で突き進んだ。雪には彼の足跡が、最初にこの道を通った人の証とした刻まれていった。彼が玄関にたどり着くと、すでにドアは開いていた。横を見やると、エイブリーが窓を開け放つところだった。青いセーターを着たエイブリーが顔を出し、満面の笑みで、「開いてるから入って」と言ってくる。あたかも少年が長い間待ち望んでいた、欲しくて欲しくてたまらなかったプレゼントが、ようやく到来した瞬間のような笑顔だ。

ほんの少しの間だったが、二人はその場で動きを止め、見つめ合っていた。ライアンの肩と髪に、しんしんと雪が降り積もってゆく。彼はそんなに雪をかぶっていたとは知らず、家の中に入った。エイブリーが彼の肩や頭を素手で撫でるようにして、その雪を払い落し始める。雪を口実にして、彼が到着してすぐに、自然な形で彼の体に触れることが叶った。まず頭のてっぺんから始め、顔の側面と首回りをさすっていった。

「あなたが来てくれて、凄くうれしい」とエイブリーが言った。

「俺も来れて、凄くうれしいよ」とライアンが答えた。そう言われたら、そう返すしかない面もあるが、本心から出た言葉でもあった。

エイブリーは今まで何時間も家の中にいたので、ライアンにとって、室内がどれほど暖かい空間なのか気づいていなかった。ライアンには、1メートル先でクッキーを焼いているような、この中で二人寄り添い、巣ごもりしたくなるような、そんなほんわかした空気に満ちていた。

別の部屋から足音が聞こえ、エイブリーの母親が大声で、「彼が来たの?」と聞いた。ライアンはマットの上で足踏みして、靴底についた雪を落とし、コートを脱いでそれをエイブリーに手渡した。エイブリーはコートをリビングルームのドアノブに引っ掛けた。すぐにクローゼットに入れると、他の洋服も濡れてしまうから、まずはここにぶら下げて乾かすつもりらしい。エイブリーの母親が家の奥の仕事部屋から現れ、ライアンを歓迎し、雪の中の運転について聞いてきた。ライアンは、親からそのような気軽な雑談を持ち掛けられたことがあまりなかったので、さっそくあたふたしてしまう。自分の父親でも、雪が降っていれば、運転は大丈夫だったか?くらいは聞いてくるだろう。ただ、それ以上は何も知りたくないのか、そこで話が終わってしまうのが常だった。エイブリーの母親にとっては、気軽な問い掛けは話の導入にすぎず、そこから広範囲にわたる話題へと会話を展開していくつもりなのだ。

エイブリーの母親はライアンに、スニーカーを脱いでドアのそばに置いておいてね、と頼んだ。それは命令というよりは、お願いといった感じの言い方で、悪い気はしなかった。ライアンはそれに従い、靴を脱いだが、内心では、左の靴下のかかとに空いた穴を大っぴらにするようで、そわそわしていた。エイブリーの母親は、彼の靴下の穴に気づいていれば、スニーカーを脱いで、とは言わなかっただろう。

(一方、ライアンの母親には、そのような気遣いはないので、靴下の穴の有無にかかわらず、さっさとスニーカーを脱ぐよう命令してきただろう。)

「あらやだ、私はあなたたちの邪魔をする気はないのよ」とエイブリーの母親は、ずけずけと会話に割り込んでいることを詫びるように言いながら、さらに食い込んできた。「何か必要なことがあったら、言ってちょうだいね。キッチンにはマフィンがあるし、―ブルーベリーもあると思うわ。それからニンジンでしょ、―ブラン・フレークもあったかしら。ライアン、あなたはブラン・フレークはいける口? レーズンの方がお口に合うかしら?―ライ麦を使った、―」

「もういいよ、母さん。わかったから」とエイブリーが割り込んで、止まらない母親の口を制した。ライアンとしては、マフィンからどんどん広がる余興のようなトークを聞いていたい気持ちもあったから、そこまで怒らなくても、とエイブリーのつっこみが可笑しかった。

エイブリーの母親は笑いながら、文字通り、お手上げといった感じで、手を上げた。

「とにかく、私は仕事部屋にいるから、何か必要なものがあったら声をかけてね」

彼女はエイブリーを最後に見やると、ウインクをした。―愛してるわ。たとえあなたがお友達の前だからって、強がって私にツンツンした態度を取ってもね―と無言で告げたのだ。そして、そそくさと退散するように奥へと引っ込んでいった。

ライアンは靴下の穴を通してフローリングの木の感触を感じていた。エイブリーの母親がリビングから出て行くと、2人きりになり、さっきエイブリーが開け放ったままの窓から、雪の音が聞こえてきた。ライアンが窓に近寄ると、突風に煽られるようにして雪が少し吹き込んできた。窓を閉め、外を眺める。さっきまでエイブリーが立っていた場所だと思った。雲が、戦いの途中でバラバラに散開する軍勢のようにうごめいている。木の枝は強風にしなり、まるで暗雲が立ち込める空に向かって、雪よ、もっと降れ、と手招きしているかのようだ。

降り始めのうちにたどり着けて、ラッキーだったな、とライアンは思った。

外を見つめるライアンの背後に、エイブリーが忍び寄ってきた。まずどこに手を置けばいいのか、一瞬躊躇する。彼がすぐそばにいればいいのに、そう思いながら長い時間を過ごしてきた。そして今、その彼がすぐそばにいた...そっとライアンの腕と体の間に、自分の腕を差し込んだ。そしてゆっくりと胸の方へと手を伸ばしていく。彼の背中に自分の胸をくっつけ、顎を彼の肩に乗せて、顔を並べた。二人の視界には今、全く同じ景色が広がっていた。無数の雪片が空間を埋め尽くすように落ちてきて、世界をどんどん白くしていく。

綺麗だ。二人とも声には出さなかったが、同じ感想を胸に抱いていた。こんなに綺麗な雪景色を、こうして一緒に共有できてよかった、と。

ライアンが一瞬体を強張らせたのが、エイブリーに伝わってきた。すぐにその理由がわかった。通りを挟んで前の家に住んでいるミセス・パーカーが、彼女の家から出てきたのだ。彼女は2時間ほど前から、大体20分置きに家から出てきては、ああやって彼女の家の私道に、雪が凍結しないようにと、塩を撒いていた。夏の時期には、彼女は鳥たちにパンくずを撒いてやっていたのだが、今はそれと全く同じ動作で塩を撒いている。

彼女がこちらを見上げてくる気配はないのだが、ライアンは彼女がいつ顔を上げるか気が気ではない様子だ。こんな姿を見られたら、瞬時に彼女の頭の中に、あらぬ想像が駆け巡り、よからぬ噂が広まる、とまで思っているのかもしれない。

エイブリーは彼女がそんな人ではないことを知っていた。仮に見られたとしても、青い髪の少年とピンクの髪の少年が、日記に巻き付けた留め輪のように絡み合っている姿を見たとしても、彼女は何も気にしないか、あるいはラブラブの二人を微笑ましく思うくらいだろう。しかしライアンには彼女の性格まで知る由もないし、彼は自分の家の近所の人たちと彼女を同一視しているのだ。

これを説明するより先に、ライアンが振り返った。エイブリーは彼の体に巻き付けていた腕を緩め、前から抱き付けるように腕を添えた。二人は向かい合い、一瞬見つめ合った後、リビングから廊下に出た。窓から見えないようにドアを閉める。

「君に会いたかったよ」とライアンが言った。

エイブリーは身を乗り出し、彼にキスした。一度きりのキスだったけれど、いつまでも唇を離したくない気持ちが溢れ出たキスだった。

「僕も会いたかった」

ライアンとエイブリーは毎日話をし、起きている時間は、ほぼ1時間ごとにメッセージを送り合っていた。夜は、いつまでもチャットをしながら、お互いの行動や思いを実況中継し合っていた。話はたいがい脇道に逸れて、元の話に戻れなくなるのが常だった。しかし、いくら画面上で言葉を積み重ねても、彼らが感じていた欠如感を癒すことはできなかった。むしろ、お互いに会いたい気持ちは、言葉を交わせば交わすほど、ますます降り積もっていった。強烈に会いたくなった夜、もう寝るべき時間はとっくに過ぎていたのだが、エイブリーはライアンに、こうメッセージを送った:こうしてチャットしてるのって、スイカ味って感じ。実際に会えたら、スイカにありつけたって感じ。ライアンにもぴんと来た。その時も、なかなかうまいことを言うじゃないかと思ったが、実際にこうしてキスをしていると、その意味が如実に実態を伴った。まさにスイカだ。キスもそうだし、体に腕を回しきつく抱き締めているのも、スイカって感じだ。目の前で話すエイブリーの表情にも、スイカが浮かんでいるようだった。

「あなたは何がしたい?」とエイブリーが聞いた。

そしてライアンは思った。やっぱりこの感じ、スイカだ。

ここで、愛について考えるべき、もう1つの真実が浮かび上がる。5回目のデートということもあり、二人にとっては、何をするかは、さほど重要ではないのだ。そこであえて何がしたいか聞かれても、あてもなく遠くに飛んでいく風船の行く先を聞かれたようで、しばし虚空を見つめた後、最も短く、最も重要な言葉しか浮かんで来ない。

君と。

ここで。

二人きり。

こうして。

これらの言葉は、「」や「」といった同様に短い単語とも相性が良く、ぽろっと流れで、そういったやや直接的な言葉が口を衝いて出ても不思議ではない。

しかし、ライアンはまだ16歳だった。彼は、一言こぼすようにそう言うだけで、的確な答えになることをまだ知らない。エイブリーも、次にすることのプランなど、立てなくても大丈夫だということに気づいていない。

どう答えればいいのか考えあぐねた結果、ライアンは「君の家なんだから、君が決めていいよ」と返した。

決めていいと言われて、エイブリーが真っ先に思い付いたことは、このままここで再び抱き締め合い、今度はもっと長く、数分間続くキスをするということだった。だが、それは危険すぎた。母親がキッチンにあったマフィンの、言い忘れた味を思い出して、「そういえば、ブルーベリー味のマフィンもあったわ」などと、仕事部屋のドアを開けたとたん、キスシーンを目撃されてしまう。

「じゃあ、僕のベッドルームに行く?」と彼は提案してから、顔を赤らめた。彼は言い訳するように、早口で付け加えた。「いや、ベッドルームっていうのは、ベッドがあるから行こうっていう意味じゃなくて、ベッドはあるけど、なんていうか、僕のルームに行く?」

ライアンは微笑んだ。「いいね。そうしよう」


ここで家の間取りについて書いておく。5回目のデートで、時間は午後5時頃。

廊下の左側のドアが、母の仕事部屋。ここで母親がせっせとキーボードに文字を打ち込んでいる。時折、彼女は指を止めて、自分が書いている世界に思いを馳せるが、彼女の思考がその世界から出ることはめったにない。キッチンでは、冷蔵庫と時計がひそひそと内緒話を繰り広げている。ガレージは眠り込んだクジラのように今は静かだが、あと1時間もすれば、父親が帰ってきて、クジラの咆哮のような、けたたましい音を立てて門が開くので、家の中の誰もが気づくだろう。家族でくつろげるリビングルームは、窓際には電灯も立っていて、仄かな明かりを暮れゆく外の世界にこぼしている。玄関には、湿ったスニーカーが立て掛けられていて、2人の少年が靴下で廊下を擦るようにして、歩いている。廊下には写真類も貼られているが、先を歩く相手の背中と、自分の靴下の穴以上には気にしていない。彼らの行く廊下の先では、ベッドルームがひっそりと、ドア横のスイッチをカチッと入れられ、パッと命の光が宿るのを待っている。その向こうには、もう一つ別の寝室があるが、現在は使われていない。バスルームでは、まるで外の降雪を真似たくて仕方ないかのように、蛇口から水滴が滴り落ちている。便座カバーは上を向いて開かれていて、3本の歯ブラシが直立に並んで立っている。歯ブラシたちは喋っている様子はない。きっと家の中で起きていることを、耳を澄まして聞き入っているのだろう。そんな佇まいだ。

これらすべてを雪が取り囲んでいる。今では屋根はすっかり雪に覆われ、私道に停めた車は、私道自体と見分けるのが難しいくらい真っ白だ。もし上空からこの家を見下ろせば、よく目を凝らさないと、ここに家があることすら気づかないだろう。

でも、あなたは大丈夫。あなたは上空から見ているわけではなく、中に入り込んでいるから、見失う心配はない。


前に来た時はエイブリーの部屋をチラッと覗き見た程度だったが、今回はじっくりと部屋の中を観察できた。壁にはポスターが何枚か貼られている。すべてアーティストのポスターで、といってもバンドとか音楽関係ではなく、画家系のアーティストだった。本棚は、本棚自体をキャンバスに見立てたかのようで、ストライプ模様になるように本の順番をアレンジしたのだろう、背表紙が綺麗に、―青、赤、青、赤、緑、赤、緑、黄、緑の順に並んでいた。ベッドは部屋の隅にあり、その頭上に、部屋に唯一の窓があった。

ライアンは窓に近づき、外を見た。目が外の暗さに慣れるまで数分かかったが、徐々に雪が見えてきて、雪の落ちる様を指でなぞるように目で追うことができるようになった。エイブリーも彼の横に立ち、二人は寄り添うように、窓の外で雪片が雨滴のように舞い落ちる様を眺めた。無数の雪片は、一つ一つがカンマやクォーテーションマークに見え、重力がどこに存在しているかを知らせてくれるようだった。

エイブリーは床に腰を下ろし、背中をベッドにつけた。ライアンも続いて、彼のすぐ隣に座った。二人の足と足が触れ合い、彼らは腕を重ねる。妙だな、とエイブリーは思った。こんな感覚は初めてだ。誰かに目の前から見つめられると、自分の欠点をすべてさらけ出しているようで、質の悪い広告塔になった気分になるものだが、こうして隣に並び、体の一部をくっつけていると、相手が自分の体の一部になったようで、相手も同じように感じているのが伝わってきて、心地良く、愛おしく感じてくる。ライアンの肌を感じながら、同時にライアンが自分の肌を感じていることも知りながら、もちろん別々の感情だということはわかっていたが、触れ合った肌を通じてお互いの体を行き来するセンセーションは、きっと同じだろうと思えた。ちょうど呼吸も合ってきて、心臓の鼓動まで呼応してきたようだ。エイブリーは身を横に倒すようにして、それを感じ入っていた。

「それで、最近何かあった?」とライアンが切り出し、それから数分間、二人は学校について、友達について、今年初めて空に出現した雪について話した。こういう話題は、誰もがそうであるように、彼らにとっても話の手始めに必要だった。二人は身を寄せ合うように、お互いの話に耳を傾けながら、二人が最後に会ってから今日までどんなことをしていたのかを語り合った。そこにはこれといって、目を見開くような真新しい情報は含まれていなかった。淡々と、いつも通りといった印象の日常が語られている間、言葉の間に言語化されぬまま残された真の気持ちを感じ取っていた。二人とも日常生活を送りながら、こうしてお互いに会う瞬間を思い描いていたのだ。まさにこの瞬間を期待し、待ち遠しい気持ちでいたことこそが、最近の出来事の大部分を占め、かつ最大に胸躍る時間だったといえる。

「それって卒業アルバム?」とライアンが聞いた。エイブリーの本棚の一番下の段に、それっぽいものが見えた。彼は身を乗り出して、それを引っ張り出そうとする。

「だめ!」とエイブリーが言った。「それは見ちゃだめ!」

ライアンは面白がって、それを大げさにつかんだ。そこにエイブリーが大げさにタックルを仕掛けた。ライアンは床に倒れ込み、ふざけて参ったふりをして、両手を大きく床の上で広げた。エイブリーがライアンの上に乗っかってきて、抑え込む。

これは遊び心から発生したじゃれ合いだった。そして、二人を包む和やかな雰囲気を、お互いの体を欲する熱が凌駕できる瞬間でもあった。しかし、ライアンもエイブリーも、それを望んではいなかった。―今ではない、まだ早い、まだデートの序盤じゃないか、と。―それで二人はじゃれ合いムードを続けた。一瞬の間があり、エイブリーが真上からライアンを見つめる。そのまま重力に任せて唇を落とせば、重なる位置にあった。なのに、なぜか笑い出してしまった。二人でひとしきり笑った後、エイブリーは真顔になって唇を近づけた。ライアンは身を半分起こすようにして、そのキスを受け止めた。

エイブリーは床に彼を押さえつけていた力を緩め、二人はより自由度の高いキスをした。ライアンが手を差し出してきた。エイブリーのピンクの髪を撫でたいのか、肩のカーブを撫でたいのか、しかし、それはフェイクだった。彼はすかさず伸ばした手を方向転換させると、うつ伏せの体勢で腕を目いっぱい伸ばし、本棚から卒業アルバムを引っ張り出した。

エイブリーは、まったくもう、と不満そうな声を上げたが、それ以上抗おうとはしなかった。ライアンがじっくり見ようと床に座り直し、最初のページから開いていく。それは去年の卒業アルバムだった。エイブリーは主役ではない2年生だったので、どのページにもほとんど写っていなかった。

ライアンが親指と人差し指で次々とページをめくっていく。エイブリーはそれを横から見守りながら、以前は気づかなかった些細な事に気づいた。―ライアンの青い髪が色落ちして、元の色に戻りかけていた。それから腕にある母斑が小熊みたいな形で可愛かった。ライアンが写真に写っている何人かの生徒について、質問を投げかけてきた。エイブリーは答えられる範囲で答えた。―彼の学校は大きすぎて、全員を把握することなどそもそも不可能だし、エイブリーは、それでも全員を知ろうと友達の輪を積極的に広げていくようなタイプではなかった。彼には数少ない友達しかいなかったが、彼らは性格を深くまで知り合えた良き仲間で、休み時間のほとんどを彼らとつるんで過ごしていた。

ライアンの指がついに、エイブリーが写っている2年生のページにたどり着いた。ただ、そこには切手サイズの小さな写真がコラージュみたいに張り巡らされているだけで、エイブリーが大きく写った写真はなかった。教室での日常風景を写真に収めようと、彼のクラスに回ってきた写真家が、ぶつくさと不満を垂れている生徒たちに無理やりカメラを向け、フレームに収めた写真だ。もっと大きく写っていれば、「この写真嫌い!」などと言えたかもしれないが、エイブリーはそこに写る自分の姿を見ても、自分の抜け殻を見ているようで、何の感慨も湧いてこなかった。

「素敵な髪型じゃないか」とライアンが言った。若干からかい口調ではあったが、本気でけなす気はなかった。

「試してたんだよ!」

「何を?」

「変な髪型を!」

しかも、それはモノクロ写真だった。(卒業生だけがカラー写真だった。)おかげでエイブリーが突然の写真撮影の日に哀れにも、たまたま着ていたオレンジ色の洋服は、―実際はハロウィーンのカボチャちょうちんみたいな色なのだが、―マーマレード感がうっすらと出ているのみだった。エイブリーの中で、オレンジの次にブームが来たのは、ピンクだった。目立ちたがりの時期でもある男子高校生にはありがちだが、エイブリーの場合、ピンクブームはすぐに通り過ぎることなく、しばらく彼の中に留まることになった。

「俺の髪は、前はもっと長くて、肩まで伸ばしてたんだ」とライアンが告白した。「12歳か13歳の頃で、髪を伸ばすことで、タフになれると思ってた。ひげを生やして大人ぶるみたいなものだろうけど、俺にはひげは生えてこなかったから。今から思い返してみると、あれはカムフラージュのつもりだったんだな。―大してカムフラージュにもなってなかったけど。ある日、俺が肩にかかる髪を手でさっと後ろに流しているところを母親に見られたんだ。『どうしてそんなことをするの?』と単刀直入に聞かれたよ。ああ、たしかに、と俺は思った。次に髪を切りに行ってからは、母親は何も言わなくなった。俺は理髪師に『バッサリ切っちゃってくれ』って言ったからな。待合室で順番待ちをしていた男性諸君に、『よく言った!』とスタンディングオベーションで拍手喝采を浴びたよ」

「髪を切っちゃって寂しい?」とエイブリーが聞いた。

ライアンは鼻先で笑った。「全然。最悪の組み合わせが何か知りたいか? 長髪と12歳の少年だよ。俺は髪につけるグリースをチューブから絞り出して、ボトルに詰めていたんだ。ゾッとするほど気持ち悪いだろ」

ライアンがそんなことを言うから、エイブリーは髪の毛がかゆい気がしてきて、つい頭皮をさすってしまった。ライアンはそれに気づくと、微笑んだ。

「ごめんごめん」と言って、ライアンは続けた。「変なこと言ってるのはわかってるよ。でもこれが俺なりの言い方なんだ。誰でもみんな過去に髪型で失敗してるってことを伝えたかったんだ。髪型の不運に見舞われるっていうかさ」

その時、ガレージから轟音が聞こえてきた。クジラが目を覚まし、大口を開けて欠伸をしたらしい。父親が帰ってきたのだ。エイブリーは時計を見た。―いつもより少し早いな、と思った。

「たぶんこの雪だから、父さんの職場が終業時間を早めたんだな」と彼は、ガレージの音に何事かとキョロキョロしているライアンに向かって言った。「きっと外はもう凄い雪だよ」

そこには言外の意味が含まれていて、二人ともそのことに気づいていた。エイブリーの父親が早めに仕事を切り上げるほどに雪が降り積もっているということは、ライアンも一刻も早くここから脱出し、家路を急ぐ必要があるということだ。しかし、ライアンは自分にそうする気がないとわかり、しばらく留まることにした。

(エイブリーにも、彼がこんなに早く帰ってしまうというのは考えられなかった。)

「二人とも!」とエイブリーの母親が大声で呼びかけた。「あと30分もすれば、晩ご飯が出来上がるわ!」

エイブリーとしては、両親も含めてみんなで晩ご飯を食べるつもりはなかった。二人でどこか、―といっても〈バーガーキング〉くらいしかないのだが、―外で食べようと思っていた。彼は立ち上がると、窓際に行って再び外を見た。さらに雪が深くなり、やはり外食なんてできそうもない。この辺りは中心街から離れているから、除雪車が回ってくるのも、かなり後になるだろう。今では、エイブリーの家の私道がどこで曲がり、どこから一般道が始まっているのかさえ見分けがつかない。ライアンが乗ってきた車がイヌイットの住居っぽく見えてきた。あるいは、巨大な亀が雪の下に埋もれているのかもしれない。

それでもエイブリーは、ライアンが早く帰った方がいいとは思わなかった。もうすでに早めに帰れるような段階ではなくなっていたともいえるが、二人とも天気予報を聞いていなかったし、彼らとしては、じきに止むだろう、くらいの認識だった。

「30分だって」と、ライアンが近寄ってきて、エイブリーの耳元でささやいた。「30分で何ができるかな?」

答え?

ライアンの手はエイブリーのお尻を触っていた。

それが答え?

キス。さまざまなキスを試す。何度もキスを繰り返す。キスを通してお互いを知る。

これが答え?

廊下を歩く親の足音が聞こえる。服は着たままの方がいい。というか、まだ服を脱ぐような段階でもない。服を着たままでも、お互いの体を感じ取ることはできた。服の繊維を通して、相手の体を触っているというありありとした感覚があり、逆に触られているセンセーションもあった。

答え?

二人にとってはもう、何をするかは、さほど重要ではないのだ。


エイブリーとライアンは、外は吹雪になりつつあることにも気づかず夢中だ。一方、エイブリーの母親は準備に余念がなかった。食料品貯蔵庫には非常食を蓄えてあり、冷蔵庫にも食料を溜め込んでいた。停電になってもいいように、キッチンカウンターにはろうそくとマッチも用意してあった。リビングのテレビからは、「ウェザーチャンネル」のナレーションが絶えず聞こえてくる。画面上の天気図に映る大きな雪雲は、東海岸の北部を覆いつくしており、今度はどの地域を襲ってやろうか、と逡巡しているようだ。

ライアンとエイブリーは、お互いの身だしなみを確認した。キッチンに向かう前に、乱れた衣服をきちんと直し合った。ちょっとくらい何かがずれていても、エイブリーの両親はそれをあげつらうようなタイプではないし、それに二人とも今は忙しかった。母親は夕食の準備に大慌てで、父親は「ウェザーチャンネル」を見入っている。窓の外を見ても真っ暗なので、テレビを窓代わりに外の様子を確認している。

「あら、あなたたち、そこにいたの?」二人がリビングに入っていくと、すかさずエイブリーの母親が言った。二人が今までどこにいたのか知りもしなかったわ、と言わんばかりだ。「今夜はゆっくりお話しできるわね。そうそう、ライアンに聞くのを忘れてたのよ。あなたはアレルギーとかあるの? 食べないようにしてる物とかある?」

「何でも食べますよ」とライアンは答えておいた。嫌いな食べ物なら100種類ほどあったが、嫌いな物を聞かれたわけではないし、「私が作ったものは何でも食べると言ったわよね」と強制的にすべてを口に詰め込まれるわけでもないだろう。

「良かったわ。チキンと、ポテトと、ブロッコリーで料理を作ったの。―これだったら無難というか、食べるのを控えてる人もあまりいないと思って。それより、問題は雪よね。高速道路は雪で大混乱だって、テレビで言ってたわ。吹雪はこれから真夜中まで激しさを増していくそうよ。ライアン、今夜は泊っていきなさい。こんな雪の中、車で帰らせるわけにはいかないわ。もしよければ、私があなたのお母さんに電話して、事情を説明してあげるから。明日だって、この分だと学校は休みになるんじゃないかしら」

エイブリーはキャッと喜びの声を上げそうになり、思わず口を押さえるが、ちょっと声が漏れてしまった。もし宇宙の大いなる存在が、この突然の事態に彼がどれほど喜んでいるかを知れば、熱風を局所的に送り込み、一瞬で雪を溶かしてしまうのではないか、と恐れたが、すぐに馬鹿な考えだと思い直した。ママには、胸のうちにしまい切れない満足感がばれてしまったようだ。エイブリーのキラキラした瞳が喜びに満ちた内面を物語っていた。

その間、ライアンの心は、エイブリーほど高くまでは、飛び跳ねるようにときめいてはいなかった。エイブリーの母親が言っていることはもっともだし、この雪の中、家に帰るのは現実的に無理だとはわかっていた。彼の両親も、そう説明すれば納得するだろう。ただ、そうすると、別の問題も生じてしまう。そもそもなぜ彼の家に行ったんだ、と聞かれるだろうし、トラブルの兆しが見えた時点で、さっさと帰ってくればよかったじゃないか、と言われるだろう。ガミガミ小言を言われたあげく、小遣いまで減らされた日には、たまったものじゃない。

「じゃあ、僕が母に電話して、途中で代わりますから」と彼はエイブリーの母親に言った。「状況を説明してください」

「任せて」と間髪入れずに返事が返ってきた。「私も母親よ。彼女も母親同士、話したいこともあるでしょうし」

ライアンは電話をかけ、母に何が起きているのかを話した。(デートという言葉は使わなかったが、)デートの予定だったのが雪で帰れなくなり、(一緒のベッドでとは口が裂けても言えなかったが、)一晩泊まらせてもらうことになった、と告げた。案の定、受話器越しに母は、エイブリーの母親と話したいと言ってきた。なんだか月面着陸の様子をスタジオで撮影している気分になった。外の吹雪さえ、自分の両親をだますための大がかりな演出に思えてきた。今晩は罪の意識に苛まれ続けること間違いなしだ。

エイブリーが母親に、ライアンの両親について何か話していたのか、話していたとすれば、どんなことを話していたのか、ライアンには想像もつかなかったのだが、エイブリーの母親は受話器を耳に当てると、さっきまでの口調から少なくとも音質つまみを3回転ひねった感じで、陽気さを上乗せして喋り出した。「あら、初めまして!」それから、深刻そうな声で、「そうなんですよ」と言った後、共感をたっぷり込めて、「それ、すっごくわかりますわ」と言った。すると、―ライアンは会話の片割れだけでも聞いていたかったのだが、―エイブリーの母親は受話器を耳に当てたまま、キッチンを出て行ってしまった。

「きっと母親同士で、僕たちの結婚の段取りでも話し合っているんでしょ」とエイブリーが当てずっぽうでコメントした。

「まさに俺が恐れてるのはそんなようなことだから、笑いたくても笑えないよ」とライアンは答えた。

エイブリーの父親がキッチンにやって来て、冷蔵庫の中からブドウを一粒もぎ取ると、口の中に放り込んだ。

「うまそうな匂いがするじゃないか」と彼が言った。

「ママにそう伝えとくよ」とエイブリーが返した。

エイブリーの父親は周りを見回し、「そういえば、母さんはどこ行った?」と聞いた。

「ライアンのお母さんと話してるよ。彼は今夜泊まるんだ」

「おお、そういうことか」エイブリーの父親はそう言うと、ライアンの方を向いた。「裏庭に空きがあるから、一人で寝てくれよ、な? たしか地下室のどこかに、上等な寝袋があっただろ。あれは防寒が優れてるから、大丈夫だ」

「パパ、なんてこと言ってるんだ。全然恰好よくないよ」

「パパは恰好つけようとしてないからな」

エイブリーの母親がキッチンに戻ってきた。エイブリーの目には、彼女がさっきより少しだけ、肩の荷が下りたような安堵感に包まれて見えた。ライアンには、自分の母親と話してきたばかりのよその家の母親、といった印象しかなかった。

「大丈夫よ。―すべて解決したわ。最初はね、ライアン、あなたのお父さんが車でここまで迎えに来るって言ってたんだけどね、―私があなたのお母さんを説得したわ。それはやめた方がいいって。きっと彼らはうちが市街地から遠く離れてるって知らないのね。まあとにかく、―最後は納得してくれたわ。ちゃんとあなたの面倒を見るって言っちゃったんだから、行儀よく大人しくしててよ。ナイフでジャグリングしたり、ビニール袋を頭にかぶせたりしちゃだめよ」(彼女は性的なことをほのめかしたつもりはなかったのだが、ライアンとエイブリーの耳には、性的な言及にしか聞こえなかった。)

「それから」と彼女は続けた。「あなたには客間を用意するって約束しちゃったんだけどね、我が家では客間ってソファーのことなのよ。ソファーがちょうど空いてて、あなたにとってはラッキーだったわね」

エイブリーはこの決定にあからさまに異議を唱えるなんて馬鹿な真似はしなかった。すでに幾重にも張り巡らされた戦略的道筋が頭に出来上がりつつあった。ライアンと一緒に眠りを共有する、そう考えるだけで抗えない興奮が湧き立ち、体が震えそうだった。

ライアンは両親に電話をかけ直すべきか考えた。謝った方がいいだろうか。それで事態は良くなるだろうか?

なるわけない、と直感が言っていた。君がここにいてくれれば幸せだ。そこではなく、ここに帰って来てくれさえすれば、幸せなんだ。両親の思いが、なぜか綺麗なメロディーに乗って聞こえた。

エイブリーが急に背中を触ってきたから、どきりとしてしまう。彼はまだ、エイブリーの愛情が手に取るように理解できるまでには至っていない。そうなるためには、エイブリーの両親と同じくらい、彼をじっくり見つめる必要があるだろう。でもそれは悪いことではないし...間違った方向に進んでいる感覚もなかった。―彼の愛情をもっとしっくり受け止められるように、これから向き合っていけばいいことだ。

そんなライアンの思いを手のひらに感じつつ、エイブリーは背中から手を離した。その時、母親が「やだー」と大声を上げた。彼女はオーブンに向かってバタバタと走っていくと、ストップボタンを押し、瞬時に扉を開いた。煙が噴き出すということはなく、彼女はほっと安堵のため息を吐いた。オーブンから香ばしい匂いが湧き立ち、鼻をくすぐった。

「さあ、ディナーにしましょ」と彼女が言った。「すっごく美味しいわよ」


食事中、ライアンは家族の様子を観察していたのだが、この家族は不思議な言葉を使って会話していることに気づいた。意地悪しようという意図はなく、ユーモアとしてやっているようだ。たとえば、—アボカドはどこ?―とエイブリーが聞いたと思ったら、母親がポテトを取ってあげたりしている。彼らは完璧に理解し合っているようだが、会話に入り込めていない部外者には、何のことかいまいち掴めない。

食事中、エイブリーはライアンの様子を観察していたのだが、どうやら彼は家族の前ではシャイになるらしい。自分から何かを言い出すことはなく、いつでも瞬時に反応できるように耳をそばだてている感じだ。エイブリーは自分の家族がおかしな会話を繰り広げていることに、痛いほど気づいていた。きっとライアンは内心小首をかしげているだろうから、聞かれれば即座に、こう説明するつもりだった。(「実は僕が8歳の時に、不幸な出来事があったんだ。当時の僕は、無性にアボカドが食べたくてね、そういう時期だったんだよ。でもアボカドは安くないし、セブンイレブンで売ってるようなものでもない。アボカドは、ママとパパには手が出せない高嶺の花みたいなものだったんだ。それで僕が『アボカドはどこ?』って言うと、ステーキを食べさせてくれた。スパゲッティの時もあったし、ホットドッグが出てきた時もあったな。」)

食事中、エイブリーの母親もライアンの様子を観察していたのだが、普段の彼がどんな感じなのかよく知らず、比較対象を持ち合わせていないため、シャイなのね、くらいしか思わなかった。

食事中、エイブリーの父親は、エイブリーがボーイフレンドを家に連れてきたという事実に頭を悩ませながらも、なんとか理解しようと努めていた。それは大きな第一歩なのだろうが、エイブリー自身がそんな大袈裟なことではない、みたいに軽く振る舞っているから、父親としては、動揺を悟られないよう胸に秘めておくしかない。

外では雪が降り続いていた。


食事が終わると、ライアンは立ち上がり、テーブルを片付け始めた。エイブリーの家族は口々に、君はゲストなんだから、そんなことしなくていいんだよ、と言って、彼を座らせようとした。しかしライアンは、いや、これくらいやりますよ、と彼らの手を跳ね除けるようにして、片付けを続けた。何らかの形で貢献したいんです、という言葉が喉元まで出かかったけれど、声にはならなかった。エイブリーと彼の両親は、そう? それなら、と折れ、お皿を洗い、すすぎ、乾かすという、いつもの流れ作業にライアンも参加させた。若干、彼のところで流れが止まることもあったが、彼はまずまず上手く作業し、打ち解けていった。このようにして、徐々に彼の中で、自分はゲストであるという感覚は薄れていった。この人たちの輪に入って、このキッチンでこうして洗い物をしていることが、自然なことのように感じられた。彼らは片付けの最中はテレビを見るのをやめ、言葉を交わし合っていた。ライアンは聞かれた質問には答えたが、彼らに対して何かを聞こうとは思わなかった。

またライアンとエイブリーの二人きりになれば、遠慮がちな態度もどこへやらで、彼の口数も増えるのだが、二人きりになる時間は、思ったよりも早く訪れた。―まだ8時にもなっていないというのに、エイブリーの両親が、そろそろ寝るわね、と言って、寝室に引っ込んでしまったのだ。「二人で映画でも見ながら、今日は早めに寝るよ」と言ってから、父親が冗談めかして、こう付け加えた。「夜が明けたら、すぐにお前たちを起こしに行くからな。家の前の私道の雪かきを手伝えよ」ライアンとしては、これだけ手厚いもてなしを受けたからには、雪かきでもして、それに報いるのが筋だろうと感じ、いいですよ、と言いかけたのだが、すかさずエイブリーが、気持ちはわかるよ、という風に片手を出して、彼の発言を制しながら、大声を上げた。「それだけは無理だから、勘弁して」

ライアンにしてみれば、自分の父親に対して、そんな風に声を上げるなんて考えられなかった。

エイブリーの父親が高らかに笑った。

「はい、はい」と母親は言って、父親の背中を押すようにして、キッチンから出て行こうとする。そしてドアのところで振り向くと、彼女はエイブリーに向かって言った。「バスルームにライアンのタオルを置いておいたから。リビングのソファーにかけるシーツもね。―あ、リビングのソファーっていうか、客間ね」すると、彼女は感慨深げな面持ちで、エイブリーとライアンの顔を交互にまじまじと見つめた。「あなたたち二人を信頼するわね、いい? 映画のPG-13と同じで、親が子供の判断を信用して、目を離すんだからね。あなたたちはまだ知り合ったばかりなんだから、―」

「わかってるよ!」エイブリーが顔を真っ赤にして、声を荒げるように割って入った。「PG-13だろ」

(ライアンとしては、穴があれば入りたい気分だった。)

「ならいいわ」とエイブリーの母親は言った。「私たちはちゃんと理解し合ってるのよね」それから、彼女がまっすぐにライアンの目を見てきた。ライアンは照れ臭さを振り払って、どうにか彼女の目を見返した。「これだけは覚えておいて。あなたのお母さんに、あなたは客間で寝るって約束しちゃったの。だから、ちゃんと客間で寝てちょうだいね」それから彼女はエイブリーの方を向いた。「だけど、私はあなたがどこで寝るか、については約束しなかったのよ。私はあなたたち二人の判断を信用してるから...ごゆっくり」

「ママ! だから、わかってるって!」

エイブリーの母親がにっこりと微笑んだ。「外に行くなら、お願いだから、ブーツを履いて行ってちょうだいね」


二人はまず、外には出ずに、リビングルームに向かった。そうすることが、親から期待されている行動であるかのように、彼らはリビングのソファーに腰をかけると、並んで「ウェザーチャンネル」を無言で凝視した。人工衛星からの映像が雪雲の行く末を示している。エイブリーはリモコンを手に取ると、横を向いて、ライアンに「何を見たい?」と聞こうとした。すると、ライアンはすでに見たいものを見ていた。彼の視線を追うと、壁に貼ってあるエイブリーと家族の写真に行き当たった。エイブリーがまだ小学校3年生か2年生くらいの頃、家族でディズニーランドに行った時の写真だ。エイブリーはミッキーマウスの耳をつけていて、グーフィーの顔真似をしているわけではないだろうが、はっきり言って、間抜けな表情をしている。誰かに頼んで撮ってもらったのだろうか、家族三人が写真のフレームに収まることによって、家族らしさを維持しようとしている感じもする。―エイブリーは両親に挟まれて、ぎこちなく半笑いを浮かべている。

「こういうのってありきたりだよね」と彼は言った。「頼むから剝がしてくれっていつも言ってるんだけど、うちの親は僕をからかうのが好きだから」

「俺は好きだよ」とライアンが静かに言った。「楽しそうだし」

相手の発言を聞くことによって、その人のことを知っていくものだが、この時、エイブリーは、その7文字、7文字の短いつぶやきを聞いて、ライアンの過去の長編を知った気がした。ライアンはきっと、ディズニーランドに一度も行ったことがないのだ。おそらく、ディズニーランドのような遊園地にはどこにも行ったことがないのだろう。ライアンの人生には、そんな場所へ行くという脇道や寄り道は用意されていなかったってことか。こんな写真、見るだけで恥ずかしいよって思っていたけれど、ライアンにとっては、恥ずかしさ以前の話で、新鮮なのかもしれない。ライアンに対して、気を遣いすぎるのもどうかと思うけど、もう少し彼の気持ちに寄り添ってもいいのかもしれない。

「楽しかったよ」と彼は認めた。「あの時、すれ違う人たちが、ことごとく『可愛いミニーちゃんだねぇ』って言うから、訂正ばかりしていたよ。『頭にリボンなんてついてないでしょ? ボクはミッキーだよ』って」

ライアンが手を伸ばし、その写真を手に取った。

「でも、君はミッキーよりずっと可愛いよ

エイブリーが笑った。「そう? ありがとう!」

二人はもはやその写真に注目していなかった。今、彼らはお互いの手を見つめ、指を絡めるようにして、手のひらを重ねた。穏やかな温もりが、重なった手を震源として、じんわりと二人の体に広がった。つながっている、という安らぎだった。

その心地よい安らぎの中に、二人はそれぞれ、小さなショックに似た驚きを感じた。自分が自分であるために闘わなければならない時、自分の中の一部がどうしても、何らかの交換条件があるはずだと考えてしまうものなのだ。そして、これまで自分が標準だと思ってきた道から外れるということは、標準的な幸せからも身を引くことになるかもしれない、とリスクにおののいてしまう。相手が自分を愛してくれることを望み、そのためにはもっと懸命に闘っていかなければならないと感じ、それにふさわしい自分になるためには、さらなる孤独に耐えていかなければならない、と覚悟を決める。

それでも。

大抵の場合、その小さなショックによって、闘争心は、するすると糸がほどけるように緩んでいく。リスクという外膜がばらばらと剝がれ落ちていき、繭がパカッと開かれるように、ありのままの自分が顔を出す。その自分を目の前から見てくれている、目だけでなく、肌を通して感じてくれてもいる。この感覚。孤独の殻を破って、完全に独りではなくなった瞬間だった。この感覚に到達しようとしてきたんだ。そして今、やっと辿り着いた。

エイブリーは目を閉じると、ライアンに体を預けるように寄りかかった。ライアンも目を閉じ、エイブリーに体を預けた。数分間、二人は一体となり、それぞれの人生の道が一本に合流するような感覚に浸っていた。両親の寝室から、何かのテレビ番組の音がかすかに聞こえていた。外では、妖精が雪の上を歩き回り、小さな足跡をつけていた。エイブリーはライアンの呼吸を感じることができた。ライアンは目を閉じていたが、ソファーの上で重なり合う二人の姿が見えるようだった。肩の辺りにエイブリーが顔をうずめてくる感覚があり、その様子をライアンは心の目で俯瞰するように想像していた。

すると、ライアンの手がぎゅっと握られ、引っ張られる感覚があり、思わず目を開けてしまう。半身を起こしたエイブリーが、こちらを見て、にこにこ微笑んでいた。

「外」とエイブリーが言った。「せっかくの雪だし、外に出てみようよ」


・・・


エイブリーがかつて履いていたブーツを何足か試してみたけれど、ライアンの足は入らなかった。仕方なく、靴入れの一番下の段に置かれていたエイブリーの父親のブーツを借りることにした。(エイブリーは、絶対に怒られないから大丈夫だと請け合った。)二人はお互いの体をいたわるように、身支度を整えた。―エイブリーはライアンの首にマフラーを熱烈な勢いで巻いていき、ライアンは部分的にミイラ化した。ライアンは、俺がやってやるよ、とジャンパーのチャックを自分で上げようとしているエイブリーの手をどけ、エイブリーの首元までチャックを上げると、頭にジャンパーのフードをかぶせた。ライアンはすぐに手を下ろさず、そのままエイブリーの頬を指で撫でるようにしている。そして...チャックを上げる時からキスに至るまで、計ったかのように滑らかな流れだった。

すべての道が消えていた。―家の前の私道も跡形もなく消えている。一歩外に足を踏み出すと、澄み切った静寂と白い闇に包まれた。雪はまだ降ってはいたが、後から思い付いて補足説明している感じで、余韻を楽しむように、はらはらと舞っているのみだ。

エイブリーは手袋をはめた手で、同じく手袋をはめたライアンの手を取ると、引っ張るようにして庭に入っていった。ライアンは一瞬、通りの向こうで夕方塩を撒いていた人に見られるのではないか、あるいは他の隣人が薄闇のどこかから見ているのではないか、と気になったが...そういう考えは一旦忘れることにした。まっさらな雪を一歩一歩踏みしめるごとに、ブーツが雪の表面から沈んでいく感覚に集中し、頬に当たる繊維状の雪の冷たさに酔いしれた。ミトン越しにエイブリーを感じ、それから、自分を取り巻く静寂の深さに染み入った。そこは車のない世界だった。翌朝にセットされたアラームもない世界。

エイブリーは手を離し、先へと駆け出した。ある衝動を抑えることができなかった。―雪が完璧な状態で目の前に広がっていて、どうしても手を出さずにはいられなかったのだ。ライアンは周りの世界に浸っていたため、エイブリーが何をしているのか気づくのが遅れた。はっと気づいて、自分も近場の雪を掬い取ろうと手を伸ばした時には、すでにエイブリーは雪玉を完成させていた。エイブリーはライアンの顔に狙いを澄まし、雪玉を投げた。

命中。

ライアンは反撃に出たが、エイブリーはさっと身をひるがえし、雪玉をかわす。そのまま、ひねった体の動力を利用するように雪を掬うと、手早く雪玉を作り、すかさず投げた。またしてもライアンの体に当たった。ライアンは多めに雪をかき集め、大玉を完成させると、確実に仕留めるために至近距離に移動してから、大玉を放った。エイブリーは身をよじってかわそうとしたが、完全にはよけ切れず、肩口にくらってしまった。お互いに次々と雪玉を作っては投げ合った。庭にはどんどん二人の足跡ができていった。

最終的に、ライアンがもうたまらないというように、エイブリーにタックルをしかけると、二人は雪の上に倒れ込んだ。コートの厚みのせいで、枕ごっこをしているようだった。二人の少年が枕に扮して、ごろんと寝転んだ感覚。雪のクッションにより倒れた衝撃は緩和され、ふわっと視界が天空を向く。エイブリーは自身の上にのしかかったライアンをかいくぐるように抜け出そうとしたが、気が変わり、力を抜いた。雪の中で仰向けに横たわると、真上のライアンの顔を見つめた。眉毛が雪で白くなり、頬は寒さで赤く染まっている。そのまま吸い込まれるように、キスをした。

ライアンがごろんと彼の隣に横たわった。二人並んで空を見上げる。空の闇から突然目の前に現れる雪片が、次々と顔に降りかかってくる。無数の星が降ってくるようだ。ライアンの頭はエイブリーの頭の隣にあり、ライアンの腰はエイブリーの腰の隣にあった。エイブリーは左足を右足の上に重ね、一本足の形にした。ライアンもエイブリーを真似て両足を重ね、一本足を作った。ライアンの左の手袋が、エイブリーの右の手袋をさぐり当て、その手を握り締める。それから、3つ数えながら、ライアンは右手を、エイブリーは左手を広げた。二人で一人の大きな天使となり、カウントダウンとともに翼を広げ、星が舞い落ちてくる白い空に飛び上がった。

「ここに向かってる時は、こんなことをやろうなんて思いもしなかったよ」とライアンが言った。雪が降ってこなかったら、今頃、家に向かって車を運転していただろうな。

「だろうね」とエイブリーはささやいた。

ライアンはジーンズに雪が染み込み、足がひんやりするのを感じた。鼻もムズムズして、鼻水が垂れてきそうだ。ライアンは帽子をかぶり、マフラーも巻いていたが、それでもコートの襟の隙間から、首の後ろに冷たい空気が入り込んで来る。とはいえ、彼はそこから動きたくはなかった。

エイブリーは、目の周りに積もった雪をどけるように、パチクリとまばたきした。そして、耳を澄ましてみた。雪たちが会話する(かすかな)音が聞こえ、もっと耳を澄ますと、木々が会話する(さらにかすかな)音が聞こえた。それから、二人のジャケットがこすれ合う、シャカシャカという音もわずかに聞こえる。

「この世界には今、僕たち二人しかいないんだ」と彼は言った。

「そうだな」とライアンも同意した。

二人は足を動かし、天使の足を崩した。翼も引っ込めた。二人は体を傾け、互いに顔を見合わせた。彼らが体を動かすと、雪の表面がそれに倣って変形した。世界の形がそっと変わったのだ。二人は、その変化をはっきりと自覚していたわけではなかったが、それとなく感じてはいた。

ピンクのメッシュが入った髪が、エイブリーの帽子の下から覗いている。濡れたブルーの髪が、ライアンの顔の側面にくっついて、右目の周りでカーブしている。ライアンはもう一度エイブリーにキスしたかったのだが、鼻水が垂れてきて無理だった。エイブリーは目の前の男の子を見つめながら、静寂の声に耳を傾けているだけでハッピーだった。

二人は雪の中でじっとしていた。

雪がジーンズの中にジトッと染み込んできた。コートと帽子の上に雪が積もっている。ライアンは手袋で鼻水をぬぐい、その手袋を雪でぬぐった。

「これってもしかして」とエイブリーが言った。「人が低体温症で死ぬ時って、こんな感じなんじゃない?」

その言い方は彼の母親にそっくりだったが、彼自身は気づいていなかった。ライアンはそれに気づいて、微笑ましく思った。

「そろそろ現実の世界に戻る時だな」とライアンが言った。

「いや」とエイブリーが訂正した。「ここも現実の世界だよ」

そうか...な? ライアンは現実味のない世界の中で、一度自分の胸に聞いてから、「そうだな」と疑念を振り払うように言った。

エイブリーが先に立ち上がり、手袋をはめた手を伸ばしてライアンを引っ張り上げる。ライアンは手助けなしでも起き上がれたのだが、差し出されたその手をしっかりと掴んだ。

ライアンはエイブリーに片手を引っ張られている隙に、もう片方の手で雪を掴むと、雪玉状に丸めた。エイブリーは気づいていないようだ。


二人は雪を投げ合いながら、家の中に駆け戻った。家自体が暖炉のように感じることなど、こんな時しかないだろう。エイブリーもライアンも、自分たちがどれほどぐっしょりとずぶ濡れなのか、正確には把握していなかった。ドアを閉め、上着を剝ぎ取るように脱ぐと、ブーツから足を引っ張り出した。中のシャツは上着に守られ、―多少、汗ばんではいたけれど―それほど濡れてはいなかった。しかし、ジーンズと靴下はぐちょぐちょに濡れていた。

「ズボンを脱がしてあげるよ」とエイブリーが嬉しそうに言った。二人ともつい笑ってしまう。現時点では、ポルノタイムに突入したいという願望はどちらにもなかった。まあ、最終的には、そうなることを望んではいたけれど、今はまだそういう気分ではなかった。

エイブリーとしては、好奇心をそそられなかったわけではなく、これまでにチラッと見てきたライアンの裸体を、思い返すように頭に浮かべていた。

ライアンとしては、性的にそそられなかったわけではなく、ズボンを下ろしたい誘惑に駆られた。自分の両親から遠く離れ、どんな制限からも解放されている。そこで、自分が穿き古した、萎びたようなブリーフを穿いていることに気づき、見せるのがためらわれた。しかも、静かすぎるのも気になる。この静寂の中でズボンのチャックを下ろしたら、シャーッという音が家中に響き渡り、エイブリーの両親が何事かと飛んでくるのではないか。

「すぐに戻ってくるから」とエイブリーは言うと、走って、ガレージ横の小さなランドリールームに向かった。乾燥機が乾燥を終えていたことに、ひと安心し、中に入っていた父親のスウェットパンツと自分のジーンズを取り出した。すぐに、彼はその乾いたジーンズに履き替え、乾燥機に入っていた他の衣服も取り出し、中を空にすると、ぐっしょり濡れたジーンズと靴下を突っ込んだ。それから、裸足でライアンの元に駆け戻ると、乾いたスウェットパンツを差し出した。そしてバスルームを指差して、「そこにタオルがあるから使って」と言った。今度はライアンが「すぐに戻ってくるから」と言う番だった。彼はつま先立ちで廊下をそそくさと進んでいった。

二人は5分も離れてはいなかったが、引き裂かれたような切なさを感じ、それぞれが待っている間、家の中の別の部屋にいる相手の気配に思いを馳せていた。バスルームでは、汗の足跡が床につかないようにまず足の裏を拭いてから、ライアンは腕時計を見た。針が10時半を差していて、思わず目を見開いてしまう。ただ、自分が何に驚いたのかよくわからなかった。まだ10時半なのか、もうこんなに遅い時間なのか、雪に閉じ込められた夜の中では、どちらも同じことのように思えた。

ライアンがリビングに戻ってみると、エイブリーがソファーの背もたれを倒し、ソファーをベッドに変形していた。少しの間、ライアンはドアのところでその様子を見守っていた。エイブリーはベッドにシーツをかけると、全身をベッドの上に投げ出すようにして、四隅に手を伸ばし、伸縮性のあるシーツをなんとか引っ掛けようとしている。ライアンは濡れた衣服を下に置くと、シーツ張りに手を貸すことにした。

「こっち」と彼は言った。

エイブリーは広げたシーツの一方を、ライアンに向かって投げた。実際のところ、ライアンはベッドメイクなんてしたことがなかったし、しないで済むなら、したくなかったのだが、―このソファーで寝るのは自分だし、ちゃんとした方が良いだろうと思った。そこで、二人でソファーを挟んで立ち、シーツの表面を伸ばすように両側から引っ張りながら、四隅に引っ掛け、表面を撫でるように平らにした。

次に、毛布も同様に、二人のチームワークでふわっと上にかけた。

この毛布は親戚とか、珍しいゲストが泊まりに来た時にだけ出されるので、エイブリーの目に触れることはめったになかった。

最後に枕が置かれ、寝床が完成した。エイブリーはベッド越しにライアンを見つめた。すぐにでも、ベッドを這うように乗り越え、ライアンの腕を引っ張り、自分たちでまっすぐに整えたばかりのシーツの上になだれ込んで、シーツがめちゃくちゃになるまで乱れたかった。

しかし、ライアンはそのシグナルを受け取らなかった。彼はじゅうたんの上に濡れた衣服を置いてしまったことに気づき、再びそれを持ち上げると、どこに置いたらいい? とエイブリーに聞いた。

「僕が持っていくからいいよ」とエイブリーが答えた。

「いや、いや、大丈夫。―場所を教えてくれれば」

「じゃあ、こっち」

エイブリーはライアンをランドリールームまで案内し、さながらホテルのドアマンのように、こちらです、と乾燥機の蓋を開けた。ライアンは感謝の意を表すようにお辞儀をしてから、自分のジーンズと靴下を、すでに入っていたエイブリーのジーンズと靴下の上に投げ入れた。エイブリーがいくつかのボタンを押すと、二人の衣服は一緒くたになって回転し始めた。

「さて、どうしよう?」とエイブリーは、今二人でベッドメイクしたばかりのベッドの上に戻ろう、という返答を期待しながら、聞いた。

「君の部屋が見たいな」とライアンは答えた。君の部屋がどんな感じなのか知りたい、と言っているのだ。そしてそれは、もっと君を知りたい、という意味の婉曲表現でもあった。

「オッケー」と言うエイブリーの声には、若干がっかりした声音が混じっていたのだが、ライアンにはそこまで聞き取れなかった。でもそれは良いことだった。もしライアンがその微妙な失望感を感じ取っていたら、そのまま失望されたと捉え、その裏にある熱い感情に気づかなかっただろうから。

部屋に入ると、エイブリーはライアンがとりあえず座り、しばらくくつろぐのだろうと思ったのだが、ライアンは立ったままで、部屋中のあらゆるものを見回している。

「この部屋にある物の中で、一番見せるのが気恥ずかしい、誇れる物は何?」とライアンが聞いた。言ったとたん、ライアンは自分が何を聞いているのか、その意味不明な質問に首をかしげてしまう。しかし、エイブリーはその意味を察してくれた。

「これかな」と彼は言うと、本棚の前に向かい、段の一つを指差した。そこには、ピンクのユニコーンのぬいぐるみが置かれていて、ユニコーンが守っているかのように、その後ろに、『ビバリー・クリアリー全集』がずらっと並んでいた。「このユニコーンはグロリアっていって、彼女は、疑いようもなく、小さい頃からずっと、僕の親友だった。一時も離れることなく、いつも一緒だったよ。前はもっと明るいピンクだったんだけど、今の彼女は、円熟味を増した感じかな。まあ、僕も前はもっと輝いていただろうけど。うちの両親は、彼女の何がそこまで熱く僕を好きにさせるのか、不思議がっていたよ。彼らからすると、僕にはもっと高みを目指してほしかったみたいだね。このユニコーンは、簡単に住める低層アパートみたいなものだから、親友を見つけるなら、もっと高層階を目指しなさいって。彼らには知る由もないけど、僕には話し相手が必要だったんだ。毎日のように話し合っているうちに、彼女が僕の内面にぐっと入り込んできてね、いつしか自分の一部みたいになっていた...たとえ姿形はユニコーンでもね。でもねえ、うちの両親は多くの先入観を捨てる必要があるよ。そこは、多くの新たなことを取り入れる必要がある、と言っても同じことだけど、とにかく、僕たちはみんなそうしてるんだから。君もそうだし、僕もそう。僕たちはみんな、常に更新を繰り返しているんだ」

ライアンはエイブリーに歩み寄り、目の前に立った。「今まさに、未知の領域に足を踏み入れたよ」と彼は、エイブリーが話していたこととは違う意味合いを乗っけて、言った。あらゆることは忘れることもできるし、新たに身につけることもできる。本当に難しいのは、―本当に厄介で恐ろしくて、そして素晴らしいことは、好きな人と一緒に同じ部屋にいて、相手に投げかける正しい言葉を見つけようとしているこの瞬間なんだ。相手の体をどう正しく扱えばいいのか、どうシグナルを送ればちゃんと伝わるのか、伝えたいことはたくさんあって、こんなにも意味で溢れているってことを伝えようと、必死で考えているこの瞬間こそ、大事な更新の時なんだ。

エイブリーはユニコーンを手に取ると、彼女の角をライアンの鼻にチョンと触れさせた。ライアンが思わず笑い声を上げる。

「彼女が気に入ったって言ってるよ」とエイブリーが彼に断言した。


僕たちは愛すべき人を見つけ、その人を見つけることで、自分に愛する能力があることに気づく。

ほとんどの場合、―というか、例外なくいつも、―僕たちは自分の能力に無自覚なのだ。


一つの部屋で二人の少年がキスしている。

一人が唇を離し、ユニコーンのぬいぐるみを学校に持っていった時の話を始める。

もう一人は、ユニコーンの模様が入ったヘアブラシについて話す。彼はそれをフォルダーに入れてベッドの下に隠さなければならなかった。それが親に見つかった時、彼は、それは同じクラスの女の子のもので、彼女とペアになって共同の課題をやったんだけど、その受け渡しに使ったフォルダーに彼女のブラシも入っていたんだ、と説明した。それは本当のことだったが、課題が終わった後も、彼がそれを長らく隠し持っていた理由にはなっていなかった。

二人の少年は、ユニコーンと両親について話し、先生と星の形をした消しゴムについて話した。二人は、いけないと思いつつ、ついやってしまう快楽について、あれこれ例を挙げて話し、この中に本当にやってはいけないことってあるかな? と話し合った。そして、ないね、という結論を導き出せて、二人とも満足感に浸っていた。

彼らは、洗濯や、就寝時間や、外の雪について忘れていた。


もうすぐ真夜中の12時を回ろうとしていたが、時間も気にしていなかった。


・・・


最初にあくびをしたのはエイブリーで、それを見た瞬間、ライアンの中でも何かが誘発され、彼もつられてあくびした。

二人してあくびをした時、二人はエイブリーのベッドを背もたれにして座っていたのだが、最終的に寝るべきベッドは、この部屋のベッドではないことはわかっていた。そういう約束だったし、それに、リビングのソファーベッドの方が大きかった。

エイブリーの母親は、ストックしてあった歯ブラシをライアンのために出しておいた。それは彼女が歯医者に持参する用で買い置きしてあったものだった。それで、彼らはバスルームの流しの前で二人並んで歯を磨いた。二人同時に口に水を含んで、クチュクチュペッと吐き出した。これは二人にとって初めての体験で、二人がお互いに親密さを実感した瞬間でもあった。そのような日常的な行為こそ、親密になるには重要で、大した行為ではないが、むしろ大したことではないゆえに、大きな喜びをもたらしてくれるのだ。

一緒に寝ようか、別々に寝ようかといった話はせずに、二人は自然な流れでソファーベッドに向かい、並んで寝る体勢に入った。ライアンはこうなる確信があったわけではなかった。エイブリーもライアンが今夜こうなりたいと望んでいるという確信はなかった。二人とも不確かさを胸に抱えていたことになるが、それは、両者が胸のうちではそう望んでいたことを意味し、ほとんど実存的な欲求を示していた。二人は並んで横たわっていたが、雪の中とはまた違う感覚だった。彼らの間にはいくつかの層があり、それらが二人を隔ててはいたが、それは薄い膜のようなものだった。二人はお互いを引き寄せるように、キスをした。そのまま唇を離すことなく、いつまでもキスし続けた。そうして段々と、接触面が熱を増していった。もちろん口でキスしているわけだが、接触しているのは口ばかりではなく、手や、皮膚や、呼吸さえも重なり合い、熱を帯びていった。ライアンはエイブリーの腰に手を伸ばし、彼の体をぐっと引き寄せた。エイブリーはライアンの背中に手を伸ばして、彼の体をぎゅっと抱き締めた。二つの体は一つに溶け合い、融合したような一体感を全身で感じていた。服を脱ぐ必要はなかったし、一線を越える必要もなかった。これがすべてだった。お互いを限りなく間近に感じているこのセンセーションこそがすべてで、この感覚をとめどなく生み出している接触面に感じ入っていた。

いつしか、緩やかに熱が下がっていった。軽いタッチに落ち着いていき、二人はそっと寄り添うように寝そべった。相手の呼吸音が聞こえた。鼓動も聞こえる。心臓が鳴るごとに、体中に血液が広がっていく様を思い浮かべていた。熱は和らいでいったが、余熱は完全に消えることはなかった。

二人の吐息が宙をさまよい、眠気が接近してきた。ライアンが睡魔と戦っている様子を、エイブリーは観察していた。彼の目が閉じたり、開いたりして、錨を失った船のように、海面を行ったり来たりしている。エイブリーは彼に、おやすみ、と言った。ライアンは微笑むと、エイブリーの体を抱き締めるようにして、おやすみ、と返した。そのまま、ライアンは眠りに落ちた。―優しさに満ちた落下だった。

エイブリーはそんなにすんなりとは眠れなかった。今、自分の身に降り注いでいる状況について考える必要があった。一度自分の中で整理して理解してからでないと、楽しめないたちなのだ。それで彼は、青く暗い闇の中でライアンを眺めた。彼の胸が上がり下がりを繰り返している。尋常ではないほど精巧に作られた機械みたいに見える。どうしてこうなったのだろう? エイブリーは自問する。こんなことが実現するなんてありえるのか? ここは彼がよく知っている部屋で、両親はここで起きていることは意に介さず、別の部屋で眠っている。外では雪が降り続いていて、そうだ、それがライアンがまだここにいる理由なんだ。全部雪のおかげなんだ。まだ知り合ってからそんなに経っていない人が真横で寝ている。これからこの人の体にリボンを巻き付けるようにして、色々な概念を結び付けていくのだろう。突然、自分を取り囲む世界から、陰謀めいた力が消えた。そっか、宇宙は元々、自分の味方だったのか。背中をそっと押してくれる優しい力を感じた。これから個人的な平穏を見つけ、どこまでもバージョンアップしていける。このふしだらな宇宙が味方してくれるんだから。

エイブリーの頭の中で、これらの概念が言葉に変換される。僕は君が心から好きだ。うまくいってほしい。まだ信じられないけど、目の前の現実を信じたい。これは現実なんだ。これはリアルなんだ。

こんな風に言葉が頭を巡っていたら、眠れるはずがない。そんな時は待つしかないだろう。ゆっくりとクールダウンし、いつしか回転が鎮まるまで。

それまでの間、隣で眠る人を見つめ続ける。そして、その人を通して、自分自身も見つめ続ける。


これは証明もできないし、眠りながら外に行って確かめるわけにもいかない。そもそもこんなこと考えることすらないだろうが、実際、エイブリーが眠りに落ちた瞬間、雪も止んだ。


・・・


夜が明ける直前、ライアンは外の通りを近づいてくる戦車の音を聞いた。寝ぼけまなこで最初に頭に浮かんだのは、とうとう宇宙からエイリアンが襲撃してきたのか、という考えだった...しかし、だんだんと遠ざかっていく音を聞きながら、それは戦車ではなく、道路に積もった雪を削っていく除雪車だとわかった。

さっさと行ってくれ。と彼は思った。雪はどけなくていいから。


そうして、ライアンがこの家で最初に目覚めることになった。見慣れない天井、部屋、ベッドに囲まれ、方向感覚が混乱をきたす。―目の横、ほんの10センチのところにピンクの髪が見えた。頭を横に向けると、隣で柔らかな体が眠っていた。―きっと夜中、寝ている間に手を伸ばし、腕を回してきたのだろう。エイブリーの腕がライアンの腕に巻き付く形で、重なったまま力を失っていた。

室内の空気は、外から差し込む光だけに照らされ、雪の色に染まっている。ライアンは立ち上がると、窓のそばまで行き、カーテンをめくって外を見た。真っ白な景色が広がっていた。見渡す限り、雪の毛布がかけられ、彼が乗ってきた車もかまくらと化している。窓枠の上からはつららがいくつも垂れ下がり、何本かは剣のように長く尖っている。

「まだ雪降ってる?」とエイブリーが背後から聞いてきた。

「もう止んでる」とライアンは振り返りながら答えた。エイブリーがゆっくりと起き上がり、ぐっと両腕を上げて体を伸ばした。―この世界に生まれ落ちたばかりの赤ん坊のように、体が動くことを確かめているみたいだ。毎朝目覚めるたびに、こうやれば腕が動くのか、と体の機能を確かめているようで、なんだか微笑ましい。エイブリーのピンクの髪には鳥の巣のような寝ぐせがついていた。目はしょぼしょぼで、頬には枕カバーの縫い目の跡もついている。それでも、ライアンは彼を愛おしいと思った。淡い朝の日差しが包む寝起きの、生まれたてのエイブリーに、強烈に引き寄せられる。―性欲? そうかもしれないね。だけどそれだけじゃない。もっと深い感情、愛情、―何と呼んでもいいけれど、彼を大切にしたいと心の底から思った。

「スノードラゴンを作ろう」とエイブリーが、半分目を閉じたまま、ぼそぼそと言った。

ライアンは一瞬何を言われたのか理解できず、「何?」と小声で聞き返した。―エイブリーがかなり眠そうだったので、もう一度寝直すのなら大声は出さない方がいいな、と思い、小声にした。

「雪の竜だよ」とエイブリーが、もっとはっきりと言った。目はまだ開き切っていない。「君の地元でも、雪でドラゴンを作ったでしょ?」

「いや、見たことないな」とライアンは正直に答えた。

「それじゃあ」とエイブリーがしっかり目を開いて、言った。「見せてあげるよ」

二人は起きたままの服装でランドリールームに向かうと、乾燥機から昨夜のジーンズを引っ張り出した。ライアンは寝間着代わりに穿いていたスウェットパンツの上から、ジーンズを穿いた。昨日の靴下を足に戻し、ブーツを履き、手袋を装着すると、昨夜と同じ格好に戻った。

外は明るく輝いていて、昨夜の静寂が夢のように、騒がしい朝だった。―水が滴り落ちる音がそこかしこでリズムを刻み、近所の家々で雪かきをしているシャカシャカという音が不規則に鳴り響く。エイブリーが目を凝らすと、うっすらと昨夜二人で走り回った足跡が見えた。二人で寝そべって作ったスノーエンジェルの跡も、―その後に降った雪で半分埋もれてはいたけれど、―天使が飛び立った後の抜け殻のように、ちゃんと残っていた。

雪を一箇所に集めた。せっかくの真っ白な幻想世界を壊さないように、なるべく表面から雪をかき集め、土や草が顔を出さないようにした。雪がこんもりと一つの山状になったら、そこから二人で形を整えていった。まずドラゴンの胴体を形作り、そこから首を生やすように雪をつなげて頭を作った。翼は難しかったので、地面に翼を休めている形にして、尻尾も付けた。通り掛かった人が見たら、何を作ったのかわからないかもしれないな、と思ったけれど、エイブリーの母親が窓から顔を出し、室内の父親に向かって言った。「ほら見て、あの子たちがスノードラゴンを作ってるわ!」


誰もが知っているように、雪で作られたものは、そのうち溶けて消える運命にある。

しかし、雪を手で掴んだ感触は覚えている。雪を手で叩きながら、どんどん固めていった時の感触はしっかりと記憶に刻み込まれたのだ。外に出た瞬間のセンセーション、ドラゴンの形に近づけていく工程、その一部始終をちゃんと二人は覚えている。

だから、雪が溶けてしまった後も、二人のドラゴンはいつまでも消えることはない。


・・・


その後、ライアンは父親からのメールに気づいた。もう道路は車が走れる状態だから、家に帰ってこい、という内容だった。ライアンは既読だけ残して、返信せずにスマホの電源を切った。そのうち、ライアンの母親が電話をかけてきて、エイブリーの母親に同じ内容を告げるだろう。そうしたら、ライアンと、エイブリーと、エイブリーの両親、4人で2つのシャベルを順番に回しながら、ライアンの車を掘り起こし、公共の道路に出るまでの私道の雪かきをすることになる。でも、それはランチを食べた後のことだ。その前にエイブリーの寝室に行って、ひとしきりキスをしよう。それから、二人で作り上げた芸術作品を二人で挟む形で、写真を撮ろう。


このスノードラゴンを作っている間、二人は言葉を交わしていたが、スノードラゴン自体については何も話さなかった。エイブリーはライアンにどのような形にするかという指示は出さなかったし、ライアンも、竜のうろこの模様をどうするか、などという提案はしなかった。二人は手袋を取ると、竜の肌にじかに指を立て、無言の呼吸でうろこの模様を描いていった。エイブリーは前にも竜を作ったことがあったが、それはどうでもよかった。ライアンは初めての経験だったが、それも重要ではなかった。二人の共同作業で作り上げた、この世に一つだけの作品は、エイブリーが一人で作っていたら、こうはならなかっただろうし、同様にライアンが一人で作っていても、このような形にはならなかっただろう。完成品を眺め、もうどの部分をどちらが作ったなどとは言えないほどに、切れ目なく混ざり合った二人の共同作品は、とても二人らしい雪像だった。

いつか、この時の写真を指差しながら、彼らは言うだろう。これが二人で一緒に作り上げた最初のものだった、と。

この後、彼らは有形無形のものを次々と二人名義で作っていくことになるが、この雪の日から始まったんだな、と。





〔感想〕(2020年8月29日)


あ~、最後まで殺人事件が起こらなかった~~!爆笑


廊下の先には、両親の寝室や、バスルームがあります。


あと、はっきりとは書かれていませんでしたが、エイブリーは女子です。(もちろん、愛し合っている二人には性別は関係ありませんが。)