Thursday, December 2, 2021

4曲目:クォーターバックとチアリーダー(『19曲のラブソング』所収)

クォーターバックとチアリーダー」 by デイヴィッド・レヴィサン 訳 藍(2020年04月04日2020年05月03日



トラック 4

クォーターバックとチアリーダー


無限の力みなぎるダーリーンは、デートの準備をしている。

彼女は顔の表面に化粧の薄い層を作ると、仕上げに軽く口紅をあしらった。彼女のメイクは自然に見えるように意図されており、―上手く化粧できた日は(というか、彼女は常に上手く化粧できるのだが)、誰も彼女が化粧していることに気づかない。口紅だけは見ればそれとわかったが、それも赤い唇に視線を引きつけようという彼女の意図である。

無限の(力みなぎる)ダーリーンにはたくさんの、非常に多くの友人がいるのだが、デート経験はそこまで多くない。彼女自身もその理由を完全には理解していない。たぶん彼女が忙しすぎるせいだろう。なにせ彼女は校内ミスコンテストで優勝したミスコン女王でありながら、放課後はアメリカンフットボールのフィールドをクォーターバックとして駆け回る花形選手なのだから。彼女は元男性のトランスジェンダーで身長が195センチもあり、しかもスーパースターということで、男子学生が畏縮してしまい、デートまでは至らないのかもしれない。友人以外に目を向けてみると、学校には退屈でダサい男しかいなくて、彼女がデートしたくなるような男がいない、というのもあるかもしれない。というか、多くの友人に囲まれていたいだけで、そんなにデートはしたくないという人も世の中にはいて、自分はそういう人なのだ、と彼女は自分自身に言い聞かせている。

もしどちらかを選べと言われたら、彼女はデートよりも友情を優先するだろう。ただし、彼女に何かを選べだとか、命令できる人は誰もいない。彼女が〈無限のダーリーン〉になったとき、彼女は誓ったのだ。人生は自分のためにあり、他の誰のものでもない、と。彼女は友人のために喜んで自身を捧げるだろうが、―それは誰かに求められたからではなく、彼女発信でなければならない。

彼女は緊張するような人ではないのだが、今日のデートには非常に緊張している。―というのも、彼女は自ら進んで、デートのことを友人全員に話してしまったからで、友人たちは興奮ぎみに、あるいはいつものように身震いしながら、彼女の話を聞いた。今、彼女は化粧を終え、デートがうまくいくことを願っている。それは友人たちが、彼女のデートがうまくいくことを願い、我が事のように応援してくれたからで、彼女はその期待に応えたいと思っている。「ダーリーンならきっとうまくいくよ。それだけの価値ある女性だから」と彼らは彼女を励ました。まるで価値があれば必ず愛にたどり着ける、価値こそが恋愛の鍵だ、みたいな言い方だった。ポールもノアもジョニも、他のみんなも彼女にプレッシャーをかけるつもりはなかったのだが、彼女はひしひしとプレッシャーを感じていた。

それは予期せぬデートに他ならなかった。何の前触れも、恋の予感もなく、一旦友情が芽生えてからそれが恋愛へと花開く、といったロマンチックな展開もなかった。デートの相手は、コーリー・ホイットマンという男性のチアリーダーで、彼はラムソン・デビルズを応援するチアリーダーのキャプテンだった。アメフトの試合で、相手チームのクォーターバックをしていたのがダーリーンだった。試合はダーリーンのチームが24対10で圧勝したのだが、試合後、彼がダーリーンに近づいてきて、声をかけたのだ。彼は彼女に、そのうちどこか外で会えないか、とデートに誘った。彼はチアリーダーの中でも目立っていたから、ダーリーンは試合中から彼の存在に気づいていた。彼は空中でくるっと一回転する宙返りを応援席で披露していた。―相手チームの選手の意識を試合から逸らして翻弄するために、しばしば美男子のチアリーダーが起用されるというは誰もが知るところだが、それでもダーリーンは彼の雄姿に目を奪われてしまった。彼女はボールを味方選手に向けて投げ、そのボールを味方選手がキャッチし、クォーターバックとしてパスを成功させた直後、誘惑に負けて応援席の彼に目が行ってしまった。彼はメガホンを使うという小賢しさも持ち合わせていて、ラップのリズムに乗せて、メガホンを打ち鳴らしていた。中でも最もダーリーンの胸を打ったのは、彼がキャプテンとして他のチアリーダーを扇動しながら、自分たちのチームの応援に徹していたことだった。決して相手チームに向けて、やじや罵声を浴びせたりはしなかった。彼はスポーツマンシップに則っていたのだ。そして〈無限のダーリーン〉は、スポーツマンシップを大いに尊重していた。

彼女は彼のデートの誘いに、その場ですぐに「はい」と答えなかった。彼女はそういう種類の女の子ではなかった。代わりに、彼女は携帯電話の番号を教え、後で電話して、と言った。―ちょっとしたバリケードを張ったのだ。こうすることで、面倒くさがりな男や不誠実な男を遠ざけることができる。しかし彼はたじろぐことなく、その日の夜、電話をかけてきた。そして、次の金曜日の夜にデートの予定が組まれた。

惑星のようにダーリーンの周りを取り囲んでいた面々の中で、チャックだけが、彼女のデートに懐疑的だった。チャックはチーム内で、フットボールにおける彼女の最大のライバルだった。

「罠だな」とチャックは言った。「ラムソンのやつらは、いっつも俺たちにちょっかい出してきやがる」

「でも彼らとの試合は終わったばかりよ!」と〈無限のダーリーン〉は指摘した。「今ちょっかいを出してきても、何のメリットもないじゃない」

「じゃ、復讐だろ」

「それだ!」

「俺はただ、あやしいって言ってるんだ」

「そりゃ、あやしいわよ。いかしたチアリーダーのキャプテンがあたしとデートしたいなんて、あやしいに決まってるじゃない。だけどチャック、あたしたちは今、軽犯罪とか重罪とか、そういう話をしてるの? 違うでしょ。それより、デートにどんな服を着ていけばいいのか教えてちょうだい」

先日の会話を思い出しながら、〈無限のダーリーン〉は、洋服選びがアメフトくらい簡単だったら良かったのに、と思った。なかなか服装が決まらず、もうコーリーは家を出たかもしれないという時間になっても、彼女はクォーターバックのユニフォーム姿だった。アメフトのユニフォームは、胸元がざっくり開いた洋服とは真逆で、胸の谷間を完全に隠していた。結局、外は寒いからという理由で、彼女はセーターにジーンズで出かけることにした。鏡の前に立ってみると、セーターもジーンズも、なかなか素敵にきまっていた。セーターはウールではなく、綿のものにした。彼がウールアレルギーだったら困るから。

そんなこと考えちゃだめ、と彼女は自分に言い聞かせた。彼があたしのセーターにくっつくくらい近寄ってくるなんて、そんなのあり得ないでしょ?

それでも彼女はその下に、素敵な下着を選んで身に着けた。


彼は6時に彼女を迎えに来ることになっている。

〈無限のダーリーン〉は窓辺で彼が来るのを今か今かと待っているわけではない。彼女はパソコンの前に座り、テスト前の最後の追い込みのように彼のことを調べている。コーリーが冬にはバスケットボールをしていることがわかった。それから、彼には付き合っている人がいないこと(ただ、女の子にのめり込みやすいタイプであること)、ランダムなアルファベットから単語を作るボードゲーム〈スクラブル〉が中毒的に好きなこともわかった。また、ニュージャージー州ラムソンの地元新聞のアーカイブで、彼が9歳の時のハロウィンの写真を見つけた。彼は『スター・ウォーズ』のランド・カルリジアンに扮して、トリックオアトリートと言いながら、近所を家々を回っていたようだ。〈無限のダーリーン〉はこの話題をすぐには持ち出さないでおこうと思った。

玄関のベルが鳴る。

歩き方にこそ、その人らしさが表れるのだ、と〈無限のダーリーン〉は悟っていた。彼女が〈無限のダーリーン〉になろうと決心した時、彼女が直面した最も根本的なチャレンジの一つが、歩き方を変えることだった。今でこそ無意識のうちに華麗に歩けるようになったが、最初は常に意識を足に向けながら歩いていた。―歩幅を一定に測るように、自分のペースを保ちつつ、自分の体から抜け出したいような歩き方ではなく、自分の体に含まれていることを楽しんでいるような歩き方を意識的に目指し、今では体が勝手にそういう歩き方をしている。階段に差し掛かれば、まるで宮殿の大階段のように一段一段を踏みしめながら歩き、歩道はランウェイと化した。じっと立っている時も、彼女はショーケースのモデルのように、全身で彼女らしさをアピールした。

(唯一の例外はフットボール場で、フィールドに立つと、彼女の体は何か別のものに変容した。時には巨大な建物になって相手選手の前に立ちふさがり、時には鳥になって素早く舞った。)

彼女が玄関のドアを開けると、コーリーはにっこりと微笑んだ。彼は彼女に会えて嬉しいことを隠そうともせず、それを表情と言葉で伝えた。

〈無限のダーリーン〉は警戒心を強める。こんなに簡単にうまく事が進むなんておかしいわ、と心のうちでガードを上げた。

家を出て、彼の車に向かいながら、彼は夕食の予約をしたことを彼女に伝えた。お店の名前を言い、あのレストランで良かったかな? と彼女に確認した。彼女は彼が予約をしてくれたことに喜び、さらに彼が良いお店を選んだことで、いっそう彼を気に入った。チアリーダーのキャプテンともなれば、お店を予約することも多いはずだから、おそらくそれゆえの良い選択なのだが、〈無限のダーリーン〉はチアリーダーのキャプテンとデートをしたことがなかったので、そこまで考えが及ばない。彼女は彼がユニフォーム以外の私服を着ているのを初めて見たことに気づく。当然、私服姿の方が魅力的だった。大きな「R」が胸に貼り付けられ、首にかかったメガホンがぎこちなく揺れるユニフォーム姿の彼を思い出した。まばゆいばかりのポリエステル製のユニフォームと比べると地味な服装ではあったが、彼が履いているジーンズのデニム生地がお尻の形をくっきりと浮き彫りにしていて、彼女は直視できずに目を逸らす。

彼が彼女のために助手席のドアを開けてくれるのを、彼女は手出しせずに待ってから、車に乗り込んだ。彼女は自分の体に合わせるように座席を大きく後ろに下げた。すぐに体はしっくりと座席に収まったが、より大きな問題は話題を見つけることだった。

〈無限のダーリーン〉が言葉に困って何も言えなくなることはそうそうない。彼女は普段から気の利いたことを瞬時に返せる自信があったのだが、機知に富んだやり取りが生まれそうもない雰囲気は彼女をまごつかせた。といっても、彼女は遠慮して何も言わないでいるわけではなかった。―自分の思いを抑えてまで黙っていようなんて感じさせるような男子と、彼女がデートするはずもない。仕方なく、適切な言葉が浮かび上がってくるまで、彼女は待つことにした。

コーリーが車のエンジンをかけると、大音量でラジオが鳴り響いた。すぐに彼はラジオを止める。

「ごめん。消し忘れてた」と彼が言った。

気まずい空気が流れる。〈無限のダーリーン〉は、コーリーが基本的に見知らぬ人であることを痛感する。

「この前の試合は素晴らしかったよ。君が中心でゲームを作ってた」と彼が言う。「君は本当に堂々としていて、輝いてた」

「あなたも輝いてたわ」と〈無限のダーリーン〉は答える。「特に、あのヤギの応援が好き。どんな感じだったっけ?」

コーリーは、まるでトヨタの車がライブスタジオで後部座席に観客がいるかのように振り返り、「ここで? ここであの応援歌を歌えって? ちょっとこの車だと狭すぎて、あれを歌ったらどうなるかわからない」と言った。

冗談ね。彼は結構融通の利く人で、冗談を言っているのだ。〈無限のダーリーン〉は冗談なんて言わないお堅いチアリーダーをたくさん知っている。西洋文明が欠点のない10人の賢者で築かれたと信じているような頭の堅い人たちだ。

〈無限のダーリーン〉は、明らかにシャイではない人が恥ずかしがっている感じが我慢ならない。彼にあの応援歌を歌わせる最も簡単な方法は、あたしが歌詞を間違えればいいんだ、と気づく。

行け、行け、ヤギのために頑張れ」と彼女は彼を促すように歌った。

予想通り、コーリーが首を振る。「違う、俺に任せろ」

それから彼は応援歌を歌い始める。


行け、行け、ヤギをとっつかまえろ!

跳ね橋を引き上げて

お堀を埋めろ!

吸血鬼のように襲い掛かれ

喉に嚙みつくんだ!

連絡網でこう回せ

投票に行け!


「神がかり的ね」と〈無限のダーリーン〉は感想を言った。「すごく独創的」

「まあな」とコーリーは言う。「ラムソンの応援歌で、これほど韻を踏んでるラップ調の歌はそんなにない。自分たちで独自に考えたんだ。でも、君は独創的なラップに詳しそうだね。掛け合ってみる?」

〈無限のダーリーン〉は固まってしまう。どういう意味?

「フットボール場で」と、コーリーがすかさずラップを刻み出した。「君がマリアにタックルしたみたいに、もしジョセフがマリアを抱いてやれば、聖母マリアが処女で身ごもったとか、受胎告知なんてコンセプトは必要なかったんだ」

〈無限のダーリーン〉の頭の中で、彼女の友人たち(それからライバル)の声が鳴り響く。

ああ、彼は君が好きなんだな、とノアが言う。

彼はイエス・キリストが生まれた日のことを歌って、君を誘ってるんだろ、とポールは言う。っていうか、気持ち悪いな。

それはパスじゃなくて、インターセプトだって俺は言ってるんだ! とチャックが主張する。

その後もコーリーはアメフトの試合について話し続け、〈無限のダーリーン〉も試合を思い返しながら受け答えをしていた。二人が共通して持っている話題は、アメフトしかないのかもしれない。二人は安全地帯に留まっていたいと思っているが、今はそれで良くても、そうそういつまでも、同じ話題ばかりを話しているわけにはいかない。

コーリーがラジオを低音量でつけ、流れ出した歌を口ずさみながら、リズムに乗せてハンドルを叩き出した。彼は根っからの幸せな人なんだ、と彼が放つオーラから伝わってきた。―月の光の中にいるような影もないし、虹のようにいろんな色を持ち合わせている感じでもない。人生は基本的に良いものだと、初めから信じて疑っていないハッピーな人なんだと思った。20秒くらい彼を見続けていたら、彼の心の中には常に歌が流れているんだな、と〈無限のダーリーン〉は感じた。時には悲しい歌も流れるのかもしれないけど、とにかく音楽は常に流れているんだわ。

「俺が大好きなものって何かわかる?」と彼が聞いてきた。

「わからないわ」と〈無限のダーリーン〉は答える。「なあに?」

「車のバンパーに貼ってある、お馬鹿なステッカーだよ」

何のことを言っているのか気づくまで少し時間がかかったが、右の車線を走る車のステッカーが目に入った。

USA:常に強く、決して間違えない。

「チアリーダーのワルたちが集まった秘密結社のスローガンっぽいな」とコーリーが鼻で笑い飛ばすように言った。

「もっと良いスローガンを考えましょう」と〈無限のダーリーン〉は提案する。

コーリーは少し考えてから、「『常に玉遊び、決して棒遊びはしない』なんてどう?」と投げ掛けてきた。

「『常にパレオを巻いて隠す、決してTバックは穿かない』」と彼女が韻を踏んで返した。

「おお、それいいね。バンパーステッカーにして売り出そう」

〈無限ダーリーン〉は同意する。「そうしましょう」


目を閉じると、〈無限のダーリーン〉は明るい光に包まれる。彼女はこの瞬間が好きで、時々こうして光の世界を漂っている。それは彼女が子供の頃に遊んだ記憶ゲームに似ている。対象物が表示され、それから目を閉じて1分間くらい、頭の中でそれを思い浮かべている感覚。こうしている間だけは、彼女は周りの世界をすべて把握できる。意識をさっきより少しだけ深いところまで沈め、視覚以外の感覚に周りの世界の煩わしさを責任転嫁してみる。空気中にオーデコロンの香りがかすかにした。水中に色のついたインクをぽたりと垂らしたみたいに、じわっと香りが広がっていく。もし匂いについて聞かれたら、〈無限のダーリーン〉は、青みたいな香りね、と言うだろう。ラジオから低音量で流れる歌を、彼が指でリズムを取りながら口ずさんでいるのが聞こえる。車が道路をひた走っている振動を体の下で感じている。

コーリーが気付く前に彼女は戻ってきたが、しばらくの間、彼女は別世界にトリップしていた。そして今、目を開いた彼女は、視界に彼の姿が映る世界にいたいと確信した。


二人はレストランに到着した。〈Black Thai Affair〉—つまり「黒人とタイ人の不倫」という許されざる恋みたいな名前のレストランだが、料理の味には定評がある。

人々の視線を感じる。〈無限のダーリーン〉が店内に入ってくると、みんなが一斉にこちらを見た。彼らは彼女とコーリーが席につくのを観察している。〈無限のダーリーン〉はこれには慣れている。彼女の元の性別がどうかという疑問を抜きにしても、彼女はとてもとても背の高い女性だから、単純にその事実が人々の目を集めてしまうのだ。彼女はコーリーより少なくとも15センチも背が高い。しかし彼は気にしていないようで、それどころか、周りの人たちが見ていることにも気づいていない様子だ。昔の名曲が降り注ぐテーブルで、彼はじっと彼女だけを見つめている。

〈無限のダーリーン〉とコーリーの元にメニューが届いた。タイ料理の店に来ると、もれなく付いてくる基本的で本質的な問題に二人は直面する。―すなわち、「パッタイ」(パスタのタイ版)を注文するかしないかを決めなければならない。〈無限のダーリーン〉はたまらず「パッタイ」を注文した。コーリーはバジルの料理を注文したが、パッタイにするか迷ったことを認めた。

二人は差し障りのない質問をし合う。それにより、ラムソンも悪い学校ではないことがわかったが、〈無限のダーリーン〉は、あたしの学校の方がいいわね、と思った。コーリーには3人の姉妹がいることがわかり、〈無限のダーリーン〉は、あたしは一人っ子なの、と答えた。コーリーはバスケットボールが大好きだと言ったが、〈無限のダーリーン〉は、あたしはここ何年か我慢して、あえてバスケから距離を置いてるの。だって、あたしみたいに背の高い女子がバスケしたら、いかにもって感じじゃない? と返した。

「我慢するのは良くない。自然体が一番だよ!」とコーリーが言った。

「前はバスケもしてたのよ。でも...」と〈無限のダーリーン〉は尻すぼみで話すのをやめてしまった。

「でも?」

でも。〈無限のダーリーン〉は頭の片隅で自分自身と相談し、ぐじぐじと悩んでいても埒が明かない、彼には本当のことを話そう、と決めた。

「でも...あたしたちの高校には2つのバスケットボールチームがあるんだけど、どちらも男女混在じゃないの。あたしの町には、あたしが女子チームでプレーしたって気にする人は誰もいないんだけど、他の町のチームと試合したりすると、向こうのコーチが文句を言い出すのよ。それで、あたしはフットボールと慈善活動に専念することに決めたの。この2つが前からずっと私の最大の関心事なのよ」

彼女の選択や行為が他の人々の心の狭さに阻まれ、そのたびに心が折れていた時期の話をするのは、なんとしても避けたいと彼女は思った。それについて話したり考えたりするたびに、もう一度他者の壁にぶつかるみたいに、当時のつらさが蘇ってくるから。さらにその話をしながら、相手の反応を見て、現在進行形で新たな壁が出来つつあるかどうかを見定めなければならないから。

「それは間違ってる」とコーリーが言った。「絶対間違ってるよ」

「そこの女性の履き物のチョイスほどは間違ってないわ」と〈無限のダーリーン〉は、左側に視線を向けながら言った。さっきからこちらの話に聞き耳を立てている女性の足元を見たら、パンプスと、もふもふブーツの合いの子みたいな、あたしにはよくわからない靴を履いていたから。

自分のことを言われているとわかったのか、盗聴女はそそくさと席を立ち、離れていった。

「どのくらい経つの? 君がそうやって立ち向かって―」とコーリーが聞いてきた。

「そんなに凄いことかしら?」と〈無限のダーリーン〉は割って入った。

コーリーが微笑む。「うん。とても凄いことだよ」

彼が笑うと、彼の声を聞くと、〈無限のダーリーン〉の脳が即座に指令を出し、全身の神経がしびれる感覚がある。ほとんど条件反射みたいに魅惑の派遣団が脳から全身を駆け巡るのだ。多幸感をもたらすエンドルフィンと、興奮をもたらすアドレナリンが、絶妙なバランスでその部隊には配合されていて、彼女自身が司令官を務めている感じだ。

「自慢話みたいになっちゃうんだけどね」と、彼女は秘密を打ち明けるみたいに身を乗り出し、彼に近づいて言った。「あたしって生まれた瞬間から、凄い赤ちゃんだったのよ。お医者さんがあたしを一目見て、なんて言ったと思う? 普通は元気な女の子ですよとか、元気な男の子ですよって言うじゃない。でも違ったの。キラキラ輝く星のような子ですよって言ったんですって!」

そこで一呼吸置いてから、彼女は続けた。「あたしは家族の喜びを一身に受けた、喜びの束だったのよ。―でも時が経つにつれて、だんだんとその束はほつれていって、いつしか絡まり始めたの。気づけば、あたしには星のような輝きなんて無くなっていたし、あたしが選択していいんだなんて思えなくなっていた。選択できるなんて考えは夢みたいに遠くに行っちゃった。心の中では、あたしが本当はどういう人なのかわかってはいたんだけど、―それを表に出して、周りに主張するだけのパワーがなかったの。なかったというか、自分で勝手にないって否定してたのね。ある朝、あたしは、もううんざりって声に出して言ってたわ。そして決めたの。他の人に対してではなく、自分自身に対して正直に生きようって。自分は星のように輝いているんだって自分にアピールする感じ。そしたら周りの人も同調してくれた。もちろん全員の足並みが揃うはずもなく、あたしに対して当たりが強い人もいたけれど、そういう人は美容院の床に落ちてる髪の毛ほども価値がないんだって思えばいいってわかったの」

〈無限のダーリーン〉はそこで話を切り上げ、コーリーを見た。彼は、わかるよ、と同調するように頷いていた。「あなたもそうなの?」と彼女は聞いた。「あなたも星のように輝いていたのね?」

彼は恥ずかしがっているのかしら? きっとそうね、と〈無限のダーリーン〉は思った。彼がほんのりと顔を赤らめたから。

「初めて完璧な側転ができた瞬間のことは今でもはっきりと覚えてるよ」と彼は話し始めた。「俺は10歳だった。その日までずっと側転の練習をしていた。―毎日裏庭に飛び出して、繰り返し繰り返し、芝生の上で側転に明け暮れた。芝生全体に無数の手形が残るくらいにね。母親に、もうやめなさいって止められたよ。でもやめなかった。俺は側転のとりこになっていたんだ。側転の細部すべてが機能し合う感覚に夢中だった。俺の体のあらゆる要素が均衡を取って、両足が宙に舞い上がる。頭と踵が逆さまになって、ほんの数秒世界が反転する。再び足が地面に着地した瞬間、俺はやった、と感じた。凄いことを成し遂げた感覚があった。あの時の俺は、その数秒間は、星のように輝いていただろうね」

彼は続けた。「それが始まりだった。夢中になって打ち込める何かを見つけること。俺にはそれを見つける才能があるってわかった。―でも真の凄さっていうのは、それを他の人たちと共有できる能力なんだって思うようになった。その手掛かりをつかんだ時から、物事がしっくり来るようになったよ。いろんなことが正しいって感じる」

「あたしはいろんなことを証明したい」と〈無限のダーリーン〉は言った。「あたしは他の人たちが間違ってるって証明したいし、自分が正しいってことを証明したい。だけど、あたしが何かをする真の理由は、それじゃないって気づいちゃったの。目から鱗が落ちるってこのことか、と思ったわ。それがわかってから、前より一段と生きやすくなった。物事を証明しようと必死になって生きるなんて、誰がそんな人生を望むっていうのよね? あたしだって人生を楽しみたいわ」

初デートが始まってからまだ42分しか経っていない段階でする会話としては、かなり珍しい話題だった。しかし〈無限のダーリーン〉もコーリーも、お互いにうまく対応し乗り切った。会話が一段落して、笑顔もなく話していたことに二人は気づく。―どちらからともなく、相手に向かって微笑みかけた。そして、お互いの瞳の中にいたずらっぽい輝きを見出せた時、二人は気まずさを乗り越え、つながった気がした。体と体、頭と頭、心と心がつながって、いろんな思考や感情が行き来し始める。その流れ出した感覚に装飾を添えるように、二人は思わずにっこりと笑っていた。


タイ料理店は調理が早いということもあり、料理は間もなく運ばれてきた。

〈無限のダーリーン〉は、レディーのように食べることを心掛けた。女の子ではなく、大人の女性として品良く食べたかった。それは彼女にとってチャレンジであり、神経を研ぎ澄ますような精密さを要求された。まるで周りの世界の礼儀正しさに敬意を払っているような気分になる。彼女の周りの世界を成り立たせる要素に長らく礼儀正しさは欠けていたから、余計に酷だった。

彼はそんな彼女を見ているが、批判的なまなざしではない。彼は彼女をじっと見ているが、差し出がましい感じでもない。デートしているカップルの中には、彼氏が彼女にあれこれ口出しして、相手の今までのストーリーを消し、自分好みに書き換えようとする人もいるわけだけど、この二人には当てはまらない。

〈無限のダーリーン〉も、批判的な精神を伴わない広い心で彼を見返す。

自分で作り上げた人格をまとって生きようとすると、―つまり、自分で自分自身をプロデュースしようと躍起になっていると、他人を寄せ付けなくなってしまうことがある。まだ完成していない部分を見せたくないという思いが働き、そんなに近づかれたら、欠点やほころびが見えてしまうと恐れるのだ。〈無限のダーリーン〉は今それを感じている。ただ、彼女はその裏側に隠された事実にまだ気づいていない。―つまり、相手を遠ざけるということは、自分も相手に近づけないのだ。ゆえに、相手の不完全な部分や、ほころびや、彼が懸命に自己をプロデュースした跡としての縫い目が彼女からも見えない。

二人は10代の若者で、平均よりやや高級なタイ料理店の真ん中のテーブルで向かい合い、自己プロデュースした自分をなんとか操っている。そして、二人一緒に入れるような一層大きなもの、「二人乗りの自己」的なものを作り上げようとしている。コーリーは冗談を言ったり、笑ったり、頭に浮かんだ音楽のいくつかを口ずさんで披露したりしているが、同時に緊張してもいる。彼の内面は緊張しきっていて、体中の赤血球や白血球が高速で廻っているのを感じ取れるようだ。自分の体がこれほどまでに騒がしくうごめき、決して落ち着くことのないものなのかと実感しつつ、その事実を目の前の彼女に実演披露している気分になる。〈無限のダーリーン〉はピーナッツを食べ、ライムが乗ったタイ料理を味わう。タイ料理店に来なければ、決して組み合わせようとは思わないだろう食材の組み合わせを味わいながら、あたしってやっぱり身長が高すぎるのよね、とか、あんまり面白いこと言えてないわ、とか、歯の間にピーナッツのかけらが挟まってないかしら、と心配している。

目の前に美少年がいても、あなたは美しすぎてあたしには不釣り合いだわ、なんて思わずにいられたらいいのに、と彼女は考えている。

一方彼は、周りの空気に言葉が溢れすぎて、どの言葉が自分の言いたいことにふさわしいのか決めかね、結局一言も発声できずにいる。

恋のキューピッドがお助けの矢を放つ必要があるのは、お互いがシャイだからかもしれない。

コーリーはシャイゆえに、彼女をデートに誘いたいと思った瞬間のことを話せずにいる。あの時、プレーが開始され、ボールが彼女にスナップされた。彼女はフィールドを見渡し、どこに投げるか見定めようとしている。敵のラインバッカーが彼女に向かって突進していく。彼女に残された時間は2秒か、1秒しかない。でも彼女はそんなことお構いなしだ。まるで彼女の周りだけゆっくり時が流れているかのような悠然とした表情で、彼女はフィールドの状況を見極め、20ヤード先に空いているレシーバーを見つけた。その瞬間、彼女の顔に笑みがほとばしった。投げる前からパス成功を確信した表情だ。彼女の腕からボールが放たれる。チアリーダー席で応援の真っ最中だったコーリーは、ぴたりと動きを止めてしまう。喉が詰まったようにラップ調の応援歌も出てこない。彼の目には彼女のスマイルしか映っていない。彼女の穏やかな動きから放たれたボールが宙を舞っている間も、ラインバッカーが彼女に詰め寄り彼の視線を遮ってもなお、彼は彼女を見続けていた。彼は彼女を知りたいと思った。彼は彼女についてすべてを知りたかった。

〈無限のダーリーン〉もシャイゆえに、友達はたくさん、たくさんいるんだけど、デート経験はそんなにないの、と言えずにいる。彼女はシャイゆえに、だいたい何事にも動じずに過ごしているんだけど、たまにふと心がざわつく瞬間があるの、と言いたいのに言えない。彼女の友人たちに話しても、そんなの理解できないと言われるばかりでわかってくれない。彼女は自分の内面の奥深くに沈み込み、底で不安定に流れる自分を見てしまう。今までいろんな選択や決断をして生き延びてきた。生き延びただけでなく、成功を収めたともいえる。しかし、心の奥の彼女自身はこんなにも不安なのだ。自分がなりたい自分にはなれた。だけど、誰かが好きになってくれるような、誰かが恋してくれるような自分にはなれていないのではないか、と不安がどっと押し寄せてくる。実際には目の前の彼に恋されているのだが、彼女はその不確かな可能性しか知らない。

「君の料理はどう?」とコーリーが聞く。

「美味しいわ。あなたのは?」

「凄く美味いよ。凄くバジルが効いてる(basil-y)」

「バシリカ聖堂(Basilesque)」

「バシリカ様式(Basilican)」

「バジル的(Basiltastic)」

「バジルづくし(Basilriffic)」

「バジルずくめ(Basiletic)」

「バジル三昧(Basilous)。俺の料理はまさにマジル三昧だな」

〈無限のダーリーン〉は箸をフォーク代わりにして、麵をくるくると巻き付ける。「やっと空気が落ち着いたっていうか、なごんできて良かったわ」

コーリーが動きを止めた。キューピッドが狙いを定めて、矢を放ち、コーリーのハートを打ち抜いたのだ。コーリーはその矢をどうするのか、横に置いておくだけか、会話に活かすのか、その選択は彼にゆだねられた。

「他の形容詞について質問してもいいかな?」と彼は思い切って、矢を放った。

「形容詞の質問って、あたし大好きよ!」と〈無限のダーリーン〉は答える。

「自分をどう形容するかっていう質問なんだけど」

〈無限のダーリーン〉は微笑む。「なるほど。どういう会話がしたいのかわかるわ」

「周りの人たちがひっきりなしに聞いてくるよね?」

面白いことに、彼女にそういうことを聞いてくる人はあまりいない。

無限の、なんてどう?」と〈無限のダーリーン〉は提案した。

コーリーは頷く。

「というのもね」と彼女は説明する。「ある時、気づいちゃったの。あたしって有限の人生を送ってるんだなって。それで、有限の人生なんてもう要らないって思ったの。有限性は絶対に避けられないっていうのはわかってるわ。―みんないつかは死んじゃうし、誰も歩いて月に行くことはできない、とかそういうことね。でも、それでもあたしは、自分の人生を無限に生きたいのよ。なんだってできる、何でも可能なんだっていうつもりで生きたいの。だって、有限に生きたってつまらないじゃない。そんな人生、色が無さすぎるわ。永遠に続かないことはわかってる。だけど、自分が正しいと思った方向へ、いつでも進みたいと思ってる」

キューピッドの矢は、実は矢ではないかもしれない。それはたぶん、正しい方向に伸ばした手だけがつかめる鍵なのだろう。〈無限のダーリーン〉は、そう言っている自分の言動が有限だと気づき、その不安感に駆られるようにして、心の奥に鍵をかけ、ありのままの自分をしまい込んだ。

「たとえばね」と彼女は言う。「有限の人がこのテーブルに、あなたの目の前に座っているとするじゃない。その人は、きっとタイ料理の魅力を凄く丁寧に語ると思うのよ。たとえば、ベトナム料理と比べたりしてね。それから有限の人って、きっとあなたのことを物凄く好きだって言うわ。大袈裟に、コーリー、あなたがとっても好きよって。そういう人は自分に対して疑問を抱くことがないから、そういうことが簡単に言えちゃうのね。―こういうデートの時は、特にその場限りって感じで。有限の人は、手を差し出して、あなたの手をつかもうともしないわ、今からあたしがするみたいに」

彼は水の入ったグラスを手につかんでいて、それを唇に向けて上げかけたところだったが、グラスを置いた。透かさず彼は彼女の手に向けて、自分の手を差し出した。彼女が手を伸ばそうとする時にはすでに、彼の手がすぐ近くにあった。

「あなたも無限よ」と〈無限のダーリーン〉が言った。「あたしにはわかるわ」

キューピッドの鍵は彼女の掌の中にあって、彼女はそれを彼の掌の中に滑り込ませた。

「すっかりね」と彼は言った。「俺は骨の髄まで無限だよ」


この瞬間、〈無限のダーリーン〉の中で何かが切り替わった。それは一旦切り替わったら、もう元には戻せない類いのシフトチェンジだった。これまでの人生、彼女には常に二つの相反する力が働いていた。彼女の友人たちは、いつでもイエスと言って彼女を肯定してくれる、とりでのような存在だった。彼らは「ダーリーンはそれだけの価値ある女性だから」とか、「君は凄い人だよ」と言って励ましてくれる。一方、家族や同じコミュニティーに属する人たちは、ノーと言って彼女に圧力をかけ、彼女の行動を制限しようとした。全く見ず知らずの人たちも、彼女を罠にかけ、ズタズタに傷つけてやろうと躍起になった。それは永続的な試練であり、彼女は綱引きの綱になったかのように、常に両側から引っ張られていた。

ようやく今、二つの力がふっと緩み、両者同点優勝のような勝利の瞬間が訪れたのだ。


コーリーの中でも、何かがシフトチェンジした。彼は自分が無限の存在だなんて一度も思ったことがなかったから、今、それが可能かどうか思案している。

彼はその考えを彼女から授かったことに、感謝の念でいっぱいだった。


成功する初デートというのは、こんな感じでうまく事が運ぶものだ。

喩えると、本の最初のページを開いて、いきなり物語世界に取り込まれるようなゾクゾクした感覚を覚える。

そして、わかる。―本能的にわかるんだ。―とても長い物語になるってことが。


コーリーと〈無限のダーリーン〉は向かい合って座りながら、周りからの視線を集めていたのだが、二人の世界に入り込んでいたので気づいていなかった。お店の端の席に年配のカップルが座っていることにも、二人は当然気づいていない。そのカップルは60代で、お互いがお互いの妻であるようだ。壁を背にした妻の方がダーリーンたちに気づき、ほら見て、という感じで指し示す。もう一人の妻が体を反転させるようにして、ダーリーンたちを見る。それから向き直り、二人の妻はしばらく微笑み合っていた。私たちにもあの頃があったね、とダーリーンたちの気持ちを正確に推し量るように懐かしんでいる。とても類似した本の後半のチャプターに、そのカップルはいるわけだ。


「タイ料理って神ね。凄く美味しいわ」と〈無限のダーリーン〉は宣言した。「だけど、タイ料理のお店ってデザートとなると、タッチダウン寸前にボールを落としちゃったみたいに残念なのよね、そう思わない?」

コーリーは、何のひねりもないアイスクリームを食べたい気分でもなかったので、同意した。

「じゃあ、どこへ行こうか?」と彼が聞く。

「そうね、どこがいいかしら?」と彼女は返す。


頭にいくつもの候補地が浮かんだ。〈スピッフ・ビデオラマ〉に立ち寄って、二人の好みが最も一致するのはどのビデオかを確かめてもいいし、〈無限のダーリーン〉の友人ジークが、近くのコーヒーショップで演奏会をしているというから、それを見に行くという手もある。そのコーヒーショップはどのカプチーノを注文しても、表面にミルクでハートを描いてくれるから、二人でハート型のカプチーノを堪能してもいい。あるいは、〈ソックス・ボウル〉に行ってボウリングをするというのもありだろう。スコアよりも、靴を脱いで、靴下で光沢のある床の上をツルツル滑る感覚に酔いしれるのも一興かもしれない。地元のレストランに行って、ミルクシェイクを飲んで、ピンボールをすることもできるし、墓地を散策しながら、そこに眠るいくつもの物語に思いをはせるのも、気が利いてるかもしれない。この前試合後にデートに誘われたラムソンのフットボール場に行って、誰もいない観客席に二人並んで座り、夜空を見上げて星座を見つけるというのも、素敵な過ごし方だろう。

しかし、それらはすべて、二人とも行ったことがある場所だし、どちらかの友人と出くわす可能性もある場所だった。街路灯で照らされた、人通りの多い道を二人で歩くというのも、知り合いに目撃されてしまうかもしれない。

二人ともまだそれは望んでいなかった。いずれ時が来れば、お互いの友人たちに紹介し、彼らのストーリーを語って聞かせる日が来るだろうけど、今はまだ、その時ではなかった。

二人はコーリーの車に乗り込み、タイ料理店を後にした。


・・・


〈無限のダーリーン〉にはある考えがあった。いくぶん頭がおかしい人の考えることかもしれない。

コーリーに話してみると、彼は笑みを浮かべ、それはいかれたアイデアだね、と言った。しかし、非常識だからやめておこう、という話の展開にはならなかった。

そこは二人とも行ったことがない場所だった。


マンハッタンの繁華街にたどり着くまでに1時間かかる。さらに、繁華街を通り抜けるのに30分はかかるだろう。

それまで二人は車の中で、沈黙することなく喋り続けていた。―うわさ話をし、冗談を言い合い、適当に思いついたことを共有した。ニュージャージー州とニューヨーク市を隔てるハドソン川の地下には、〈リンカーン・トンネル〉が通っている。そのトンネルに入る車の列に並びながら、カーブを描く高架道路で順番を待っていた。〈無限のダーリーン〉は、ここから見る景色が昔からどれほど好きだったかをコーリーに語った。

「こんな風にあの街を眺めてるとね」と彼女は言い、ハドソン川の向こうに広がる、無数の光がまたたく摩天楼を、両手を広げるようにして指し示した。「思わず息をのんで見入っちゃうの。だけど、あたしが〈無限のダーリーン〉になってからは、違う要素がこの景色に加わったのよ。前はね、凄く大きな街だな、なんて煌びやかなんだろうって感嘆するばかりだったわ。だってほら、あたしってキラキラしたものが大好きでしょ、だから、あの街がすべてのものの中で一番輝いてるからっていう理由で好きだったの。でも、―今はそれだけじゃないわ。こんなこと言うと、いかれてるように聞こえるかもしれないけど、あたしはあの光り輝く大きな街に突っ込んで行きたいし、それだけじゃなくて、未来に突入したいのよ。あたしは、生まれ育ったニュージャージーの町が大好きよ。だけど、あたしは〈無限のダーリーン〉だからね、自分の町よりはるかに大きくなっちゃったの。あの大都会こそが、あたしの未来よ。ほら見て、あそこにあたしの未来があるわ」

コーリーは、自分の将来についてそこまで自信を持ったことは一度もなかった。彼は彼女にそう伝え、でも、そういうのっていいと思うよ、と付け加えた。

「たまには運転手が大都会までお供しますよ」と彼は言った。

彼もまた、キラキラしたものの価値がわかった。気品とか、自信とか、そういうのって何よりも光り輝いているものだ。二人の頭には、未来の青写真が描かれつつあった。しばしばそうなってしまうものだが、好きになりつつある人の影絵のような青写真が。


マンハッタンの繁華街を抜けると、ブルックリン橋はすぐに見つかった。しかしブルックリン橋の付近に駐車場を見つけるのは、そう簡単ではなかった。結局、コーリーはイースト川から数ブロックほど離れた、チャイナタウンに差し掛かった辺りに、一台分車を停められるスペースを見つけ、巧みにハンドルを回してそこに車をねじ込んだ。

「さあ、行きましょ!」と〈無限のダーリーン〉は言った。彼女は彼の手をつかむと、彼を引っ張るようにつかつかと前へ歩みを進める。二人はクォーターバックとチアリーダーで、カップルになったばかりだったが、ニューヨークの誰一人として、二人の存在に気づいていないようだった。チャイナタウンに店をかまえる店主の何人かは、店の前を颯爽と横切る〈無限のダーリーン〉を一瞥したが、たまに見かける夜の一場面、大都市を構成する一つの要素に過ぎない、といった感じですぐに目を逸らす。

ブルックリン橋の歩行者通路に近づくと、〈無限のダーリーン〉は打ち明けた。「あたしね、小さい頃からずっとここに来てみたかったの」

コーリーは彼女の姿を思い描く。―彼女がまだ小さな女の子だった頃の姿を思い浮かべる。彼女はドレスを着て、あごひものついた白い帽子をかぶっている。4月のイースターパレードの日に、おめかしして街に出てきたのかもしれない。それは単なる彼の想像でしかないことを彼はわかっていたが、〈無限のダーリーン〉が今までにたどって来た過去の情景をありありと思い浮かべることができた。あどけない彼女の姿は説得力を持って、彼の胸に刻まれた。

彼は高所恐怖症だったが、〈無限のダーリーン〉にそれを言わなかった。二人は木製の橋の上に足を乗せる。―実際の川が立ち尽くす二人の前に広がった。歩道の下の車道をひた走る車の通過音と、風の音だけが聞こえる。―彼の足元が若干心もとなくなる。彼はここがこんなにも風が強く吹き付ける場所だとは思ってなかったし、それは彼女も同じだった。風に煽られ、彼女の髪が四方八方に飛び散るようになびいている...しかし彼女はその感覚を気に入った。世界が少し気を許してくれたみたいな、世界が心を開き、ありのままの自由な姿を見せてくれたみたいな気がした。

彼は膝が少しがくがくと、ぐらつくのを感じる。車の音は気休めにもならない。彼はこの橋が100年以上もここに立っていることを知っている。彼は今夜がこの橋の最期の日になるのではないかと心配でならない。こんな仕事やってられねえよ、と言って、橋が今夜きりで職務を放棄してしまうのではないか。

彼女はわかる。彼は勇敢な表情を必死に取り繕っている。そういう強がりの表情というのは、学生が相手の人間性を見抜く際に、最も簡単に見破れるものなのだ。

「あらまあ」と彼女は言いかけて、発言に修正を加えた。「あら、可哀想に、あたし何かあなたに不都合なことしちゃった?」

しかし彼は立ち止まらなかった。彼は彼女の手を握り締め、先へ進んだ。二人は橋の真ん中辺りまで来た。

橋を吊り上げているケーブルが、二人の両側でピンと張って伸びている。ケーブルをたどって視線を走らせると、古くて不死身に見える塔につながっている。そろそろニューヨーク市が何か手入れを施してもよさそうな頃合いにも見える。車のヘッドライトとテールランプが二人の足の下を流れてゆく。川は暗い水面を揺らし、月は一つの雲の背後からこちらを覗くように、雲の周囲をぼんやりと光らせている。

「今夜こんなところに来るなんて思ってもみなかったよ」とコーリーは〈無限のダーリーン〉に言った。

彼女は髪をなびかせながら、微笑む。「あたしもよ。あなたと同じ、あたしも全然思ってなかったわ」

彼女は彼の片方の手を握っている。彼が彼女のもう片方の手を取る。彼らは一つの輪になった。

彼は彼女の腕を引き寄せ、背伸びをするようにして、顔を近づけた。彼女は何が起きているのかを理解し、ゆっくりと腰を曲げ、彼女の唇を彼の唇の上に乗せるように、重ねた。

それは〈無限のダーリーン〉にとってファーストキスではなかったが、重要なキスという意味では最初のキスだった。今までのキスは、どれもお試しみたいなものだった。今回のキスは、創り出されるべくして創り出された作品のように、ずっと残っていくだろう。

彼女は目を閉じていたが、意識は遠のいていなかった。実際、彼女の意識はどこにもさまようことなく、その場に留まっていた。彼も同様に明瞭な意識のまま、キスしていた。


車が足元を次々と通過してゆく。何十人、いや何百人もの人々が横を通り過ぎてゆく。月はわずかばかりその位置を変える。点のような無数の光が水面に反射し、ゆらめいている。


彼女は目を開き、彼の瞳の中を覗き込む。

「世界にはあたしたちの二人しかいないのよ」と彼女が言う。

「世界には俺たちの二人しかいない」と彼は同意する。


とても長い物語になる、とはっきりとわかった。





〔感想〕(2020年5月3日)


〈無限のダーリーン〉は長身のアメフト選手で、内面は女の子ということで、地の文は硬質な感じを心がけ、会話の台詞は女の子っぽく訳しました💙💖


「an insane idea」(いかれた考え)だと言っていたので、どこに行くのかと思ったら、ブルックリン橋の歩行者通路で...

『ティファニーで朝食を』や『ダッシュとリリーの冒険の書』などの小説の中で、藍はすでに行ったことがある場所でした...(そういう小説が好きな藍も含めて、小説の中の人たちはみんな、いかれてるってことかな?笑)


「世界には二人しかいない」というのは、「周りの目とか陰口とかは気にしなくていい」という意味でしょう!

ただ、藍はおっさんになった今もそうだけど、特に若い時は、なかなか気にせずには過ごせないものなんだよね...涙

ぼくも周りを気にしない〈無限の藍〉になりたい...号泣






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